パッポン |
-花の色はうつりにけりないたずらに 我が身世に降る眺めせしまに- |
バンコク市内シーロム通りソイ・パッポンにある有名な歓楽街。タクシーには、一言「パッポンへ」と言えば連れていってもらえる。市内中心地にあるバンコク最大の歓楽街! かつて、米ニューズウィーク誌に世界最高のバーと絶賛されたこともあるキングス・キャッスルをはじめ、バンコクで最高質の女の子を集めた最大の歓楽街パッポン、ここでは約20軒のゴーゴーバー(ストリップバー)、ショーバー、フェラチオバー、ソープランド、オープンバー、カクテルラウンジ、ディスコなど、男の求めるものをすべて集めた所だ。 |
注意情報:パッポンの某有名ゴーゴーバーでボラレたとの投稿が幾つか届きました。これらの投稿を読みながらオレは考えてしまいました。![]() まれにですが、以前からパッポンのゴーゴーバーでは、不慣れな観光客を狙って、不当に高い料金を請求することがありました。その多くは従業員数人がグルになっての内職で、組織的な犯罪行為では無かったと思います。(一部例外もありましたが) 当然、”ボッタクリ=不慣れな外国人へ法外な金額を請求をして金を巻き上げる”と言う行為は許される事ではなく、事の善悪は論ずるまでもないでしょう。しかし、オレが納得出来ないのは、ボッタクリ被害者達はその不当に高い請求に対して、あまり抵抗や抗議をした様子がないのです。ただ「パッポンのバーでボラレた。悔しい!」だけなのです。何故、「マネージャーと話したい」とか「警察で話をしよう」と言えなかったのでしょうか?慣れない外国での言葉の壁と言う問題も理解は出来ます。しかし、どんなに意志の疎通が困難な相手でも”ポリス”の意味は通じるはずです。あまり抗議の出来ない日本人はボッタクリ内職従業員の標的にされやすいのではないのでしょうか?不当な請求に対してははっきりと抗議の意思表示をしましょう。抗議をしたからと言って、他の客も多く通りに面した一階のバーで危険な目に遭うことはないでしょう。パッポンにはツーリストポリスも常駐しています、不当な請求をされた時は迷わず訴え出ましょう。 tourist police tel:1699 こう書くとなんだかパッポンは恐ろしい所みたいな印象を受けるかもしれないが、本当はぜんぜん大丈夫!オレは10年間一度もボラレた事が無いぞ!小金を持った気の弱そうな奴は狙われるみたいだけど、普通は大丈夫!パッポンでボラレたら”自分は気弱そうに見えるんだな・・・”と自覚しましょう。 また、今回投書のあった数店は、元々明朗会計を売り文句にしてパッポンナンバー1の地位についたグループ店だった。以前と違い経営規模が大きくなった今は、末端まで監視が行き届かないのかもしれないが、もはやパッポンの顔のなった風俗店グループである、此処での評判がパッポン全体の評価になりかねない、再度従業員の教育と監視を徹底し猛省を期待したい。 |
情報の投稿は、こちらまで![]() 情報の無いところが多くすいません!どなたかパッポン通の方、力を貸して下さい。 |
![]() |
![]() |
[外道の細道] |
ブラックパゴダ![]() ![]() ![]() |
パッポン2![]() パッポンの新ゴーゴー ブラックパゴダについて 評判悪いがサイトからパクってきたコピーでは にぎやかなパッポン通りの上にそびえ立つガラス張りの楼閣がバンコックで最もユニークなゴーゴークラブ、ブラックパゴダです。 リラックスできるシックな雰囲気の中で、美しい女性とすばらしい音楽を聞きながらパッポンのにぎやかな通りを眼下にエンタテーメントを心行くまでお楽しみください。 サービス、安全、品質を保証いたします。 お問い合わせ、ご予約は当社のクライアント広報ディレクターのアミ、baruch@blackpagoda-bangkok.com までご連絡ください。 ![]() 皆様をお待ち申し上げます! ブラックパゴダはパッポン通りにあります2。パッポンソイ2にあるパゴダブリッジにあります。上を見て頂ければすぐに見つける事が出来ます。 Foodlandの向かい、COSMOSの横の階段をお上がりください。 と、最高に変な日本語で説明されていた。自動翻訳だな。(2011年1月31日) ![]() ![]() 1・客席からパッポン2通りが見下ろせ、パッポンのネオンも綺麗で眺望の良さはA-GOGOでは群を抜いてます。 2・嬢は全く踊りません。 3・ドリンク攻撃は非常に強いです。 4・断ると、ビックリするほど罵られます。 5・以後、誰にも全く相手にされなくなります。 6・若いファランが半裸の嬢を抱えながら、店内を闊歩します。 7・勿論誰も止めませんので、エスカレ-トしていきます(以降はご想像の通りになります)。 行った日が悪かっただけかも知れませんが、ドリンクを半分以上残しての退店は、初めてでした。 ビアシン120Bです、他は放置プレ-だったので知りません。 まだまだ修行不足でした。(2011年1月28日) |
|||||||||||||||||||||||||
BADA BING! BADABING! GO-GO BAR Patpong soi 2 10500 Bangkok THAILAND |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
|||||||||||||||||||||||||
ピンクパンサー | ![]() ![]() ![]() ![]() とくに最近のオキニとは(今もお世話になっているので名前は秘密ですが)、PB600Bでロングで2500Bです。 とはいっても、チップで1000Bあげてしまっているのですが、まったく惜しくないくらい心身ともに満足させてもらってます。 あと、ムエタイのショーは必見です! すぐ目の前で、本気で戦っているので見ごたえあります! 若き戦士にチップをあげたくなってしまうくらいです。 ゆっくりできるバーですので、寄られてみてはいかがでしょう。(2009年10月5日) ![]() |
|||||||||||||||||||||||||
ストリップ |
![]() ![]() ![]() |
|||||||||||||||||||||||||
CLUB 66 | シーロムから入るとキングスコーナーの少し手前![]() |
|||||||||||||||||||||||||
スーパーガール | ![]() |
|||||||||||||||||||||||||
ゴールドフィンガー | ![]() |
|||||||||||||||||||||||||
エレクトリック・ブルー | ![]() ![]() ![]() ![]() エンジェルハンターさんからの情報:2005年10月頃、パッポン1「スーパースター」にいた、お気にが、パッポン2の「エレクトリック・ブルー」へ変わったと言うことで、行って参りました。女の子の数、綺麗系から、可愛い系まで、どこからこんなに集まってくるの?って言うくらいいました。そして、何よりも、皆楽しそう、ダンスも、上手いヘタは、別として、ダラダラ踊っている子が殆どいない。女の子の層も厚いせいか、客も、ファランから、日本人、他東洋系、色々いました。ここの、ママや、チーママも、気さくで、親切に対応をしてくれる。日本語も通じるので、初心者にはうってつけなのでは?ここまで、好印象植え付けられると、他の子の味見もしたくなる物で・・・(笑)。日を改め、お気にが出勤する前(お気にが遅番なのだ^^;)に、可愛い系の娘に声をかけ、コーラーを奢り、自己紹介などしばし談笑、そろそろお気にが来る頃と思い、ここは、うるさいから静かなところで、ゆっくり話そう。と言うことで、ペイバー(600B)。スリウォン通りのカフェで、軽食をとり、ホテルへお持ち帰り、元々好き者なのか、私が気に入られたのか(時惚)あの手この手で、女の子に終始攻められっぱなしで、こちらが攻める前に、撃沈こされてしまいました。ビール100B+コーラ80B+ペイバー600B+ショート1500B+@後ホテル代。この調子で、違う日に、3回、それぞれ違う子をお持ち帰りしましたが、値段にも余りバラツキもなく、娘との会話や、Hも非常に満足行く物でした。後に、お気にに、違う子達を連れ込んだことがバレてしまい罰として高い買い物をさせられました。(泣)(これだけで済んで、良かったと思うことにします)自分なりの評価として:自分だけでなく、他の客を見る限り、女の子のコーラ・ペイバー攻撃も余りくどくなく、店内も割と広いので、見るだけの人でもゆったりくつろげるのでは、無いかと思います。因みに年が明けた今でも(2006,5,6)通い続けております。(05/21/2006 ) |
|||||||||||||||||||||||||
キングス・キャッスル1 |
キングスグループNO1の店だが、伝説のナンバー1”パッポンの藤原ノリカ”引退後廃れ始め今やその地位をグループ内のキングス・キャッスル2に譲ろうとしている。巻き返しに期待したい!!この店の特徴は抜群のプロポーションにきつい顔。ペイバー400バーツ。ペイバー費用⇒ダンサー400バーツ ウエイトレス(呼び込み含む)600バーツ。
|
|||||||||||||||||||||||||
|
美しいというよりもカワイイといいたくなる子が多い。キャッスル1とは路線が異なり、お互いライバル意識があるようだ。ペイバー400バーツ。ペイバー費用⇒ダンサー400バーツ ウエイトレス(呼び込み含む)600バーツ
|
|||||||||||||||||||||||||
キングス・キャッスル3 衆道の皆様はバンコクLB天国 参照のこと |
最早カマ専。かつてはカワイイ女の子もおおかった。ペイバー400バーツ。
|
|||||||||||||||||||||||||
キングス・コーナー |
カマの方が多い。その筋には大人気!世界一美しいカマの総本山!ペイバー400バーツ。そのあまりの美しさから旅行者は良く勘違いしてカマをペイバーしているようだが、此処でのカマの見分け方は簡単。ビックリするほど綺麗で性格がよければカマ。その反対なら女だ!
|
|||||||||||||||||||||||||
|
キャッスルグループの二軍。キャッスル1・2を見た後で行くとガックリ来るが、それなりにカワイイ子もいる。
|
|||||||||||||||||||||||||
クレオパトラ (Kings cloud 跡地) |
|
|||||||||||||||||||||||||
クイーンズ・キャスル3 | ![]() |
|||||||||||||||||||||||||
タイバー |
|
|||||||||||||||||||||||||
キッス |
|
スター・オブ・ラブ リンダ・ハウス |
ババア度100パーセント、テクは人間国宝。
|
||||||
スター・オブ・ライト |
ババア度100パーセント、テクは人間国宝。ソイ2にある。
|
店 名 |
コ メ ン ト |
|
パッポン2のバービア | ![]() |
|
BAR BAR | SMクラブ![]() ![]() 場所はパッポン2、シーロム通りから入ってすぐ。 店はドアで閉められており、店の前に親父が「SMショー興味あるか~?」 なんて感じでした。 で、入る意思を示すとドアが開き、「何を飲むか? 最初のドリンクはB900だ~!」 と説明してくれます。 で、2Fに上がりパブがあるのですが、客はおらず、レザー系の衣装を着た女の子(?)達もだらけていましたが、ソファーに座り、ビールが出てくるやいなや、突然ショーがはじまりました。 昔Soi33 ケーブ (今のデモニア) に行った時にも思いましたが、所謂S系の女性の表情は似ているなぁ~と。 目の前でふたつのショーが同時進行、左手はかなりプンプイな女性が縛られ尻叩かれています。 一方右手には小さな女の子が四つんばいになり、パンツの上からアソコをこすられており、こちらはかわいい。 簡単なショーがおわると女王様達が「お前たちも参加しろ」 とばかりに手招きするのですが、友人には悪かったですが、そそくさと右側のかわいい娘の方に行かせてもらいました。 特に鞭打ちたいとも思いませんので、胸と下を触りながら名前を訊くと ガンちゃん、21歳、ウドン出身で、このパブには8ヶ月働いているとの事。 (後でサイトで女の子の写真確認しましたけど出てなかったなぁ・・・。) この子にもドリンク驕り、おしゃべりタイム、まぁこの辺はGoGo と同じ感じですが、常にガンちゃん、小生の愚息をしごきます。 そのうち「3Fに部屋あるから行こう。」と。 しかし直前に抜いてきているので、この後を考えてもここで抜くのは想定外。 「なら、同じ階の別室(と言ってもカーテン下がっているだけ)行こう」 って事でプンプイな女性につかまっている友人を見捨ててそちらに移動。 するとガンちゃん、口でしてくれると・・・。 やはり21歳の若い肌はいいですね。 口抜きしてもらいました・・・・ (←全く予定外でしたが、かわいい娘だったので。。。) 入場から出るまでの総費用は B4,300 (チップ込み、スペシャルチップも込み) /2名でした。(2007年6月28日) ![]() ![]() ![]() |
|
FUNKY DOJO TWILO | ライブバンドのあるバービア バンドの質はいい![]() ![]() 煩悩堂さんからの情報:メジャーなところは先輩士族の方々が投稿していますので、(多分)今まで投稿が無かったところを一軒。SILOMからPATPONG1に入り、最初に右折する角にあるバー。角地を利用し、2面をオープンにしているので、知っている人も多いと思います。ライブのバンドが入った店で、店内はファランとプロの(と思われる)ねーちゃん、それに黒人/インド人少々が加わり、あふれていました。ハイネケン:100B。GO-GO遊びが少しマンネリ化してきたように感じていたので、この店は新鮮にみえました。尚、同経営と思われるもう一軒のバーが隣接しています。こちらはライブバンドなしですが、バーカウンターの後ろにあるDJブースから音楽を繰り出していて、店中に不健康そうな照明の光であふれていました。MUZZIK CAFEの同系列のようですが、確認していません。(2005年09月07日 ) |
|
FUNKY DOJO TWILOの隣にあるバー。 | ![]() |
|
ルシファー | 淫売御用達![]() 座頭市兄弟さんからの情報:パッポンにルシファーというディスコがある。マルコのおねーちゃんと、キーマオ状態で午前1時に入店。う~ん葉っぱの匂いが充満してるな。中はあまり広くないが、ファランの男と、淫売のおねーちゃんであふれていた。どっかで見たことがある子がいたので、よく観察してみると、タンポポにいた女だった。きっとあぶれたのだろう。最後にはファランをゲットしてかえっていった。男はファランだけ。(2004年7月28日 ) |
|
ボーイズバンコク | ゴーゴーボーイズ パッポンではなく、スリウォン、ソイ・トワイライトにある。女性・バイセクシャルの方がご利用になる。お客にパッポン・タニヤ女多数。
|
|
キングス・ラウンジ |
|
|
キングス・ガーデン |
キングスグループ経営のオープンバー。生バンドがあり未だにディープ・パープルをやっている。2時以降から混み始める。ここで店のはねた子を捕まえるのが一番安上がり。 |
|
ミュージック・カフェ (元アジアブックスのあった場所) |
キングスコーナーの向かいにあったアジアブックスが無くなり生バンドが入ったバーが出来たのは知っていた。しかし、「どうせキングスガーデンみたいなもんだろ・・・」と思い無視していたのだが、先日ディスコであって意気投合したイカレ外人とその連れの淫売とに朝までやってるからと言う理由で連れてこられた。楽しかった・・・バービヤとディスコの合いの子みたいな店だ。広くない店内に充満するイカレた淫売と外人達。オレのシート隣ではカマと白人がペッティング状態に入り、その隣ではキャメロットのレズがディープキスを始め、オレも調子に乗って女の子のシャツの下に手を入れてオッパイをもんでいた。オープンエアの空間なのにそんなことが出来てしまう・・・さすがにパッポンは侮れない。![]() ![]() この店は相変わらず暇そうな外人のたまり場。場末万歳の癖に意外にいいバンドが入っていて一人でもほっておいてくれるのでオレは気に入って最近よく行っている。気づいたのだがこんな店にも常連がいて毎日同じ顔を見る。女も商売っ気が強くなるのは12時過ぎからでそればではバンドマン目当てのしょぼいグルービーインバイみたいなのだけ。少しだけお話した。マイちゃんはスイス人のハゲがいるが金だけ送ってきて本人が来るのは半年に一度ほど。暇なので元の職場で友達もいるパッポンに来ている。お目当てはグラサンの長身ヴォーカル。競争相手は多いらしい。そういえば奴の正面のテーブルだけいつも女で満席だ。暇なお手当てインバイの娯楽の場でもあるようだ。マイちゃんも時々浮気けんバイトをしているので少しだけ商売っ気があった。あまり金に不住していないのでケチは嫌いだそうだ。そりゃそうだろうな。オレはお話だけしてお礼に一杯おごった。ロングアイランドというカクテル。少し飲ませてもらった。見た目は綺麗だがものすごくきついカクテルだった。マイちゃん曰く『やりたい女に飲ませろ。すぐ酔っ払うから』だそうだ。マイちゃんはお友達でいい。歳だし・・・。(2008年10月15日) 外道ヒロからの情報:ロリザルが見つからない・・・時刻は午前一時。タニヤは無理だ。熊医者は店から出てくる女を捕まえようとデュークタワー前に行きたがる。カムリ乗ってる割に行動がセコイ。一見、女を待つヒモかホモのタチンボに見える。かったるいのでオレは勝手にパッポンにうつる。かつては毎日入り浸っていたのにすっかりご無沙汰だったな。基本は10年前と変わってない。淫売とギラついた男達の世界だ。育ちが悪くて下品なところが良い。 此処は相変わらずだな・・・いきなり淫売と気の弱そうな白人がビール瓶逆手に持って喧嘩し始める。モリズカは雰囲気だけでビビっている。ローリー達も諦めて合流してきた。こうしたバーでの遊び方は日本人には不慣れなので皆どうして良いのかわからず、ボーッと座ってる。黒人のラッパーが歌うエミネムにオレは爆笑して遊んでいた。オレは此処でも十分楽しかったが、他の連中が可哀想なのですぐ出る。(2005年8月10日 ) |
パッポン学校(Sさんからメールでパッポンについて教えてもらいました。ウーン、勉強になるなー)
パッポン物語
パッポンの名前と評判はみんな知っている。バンコク第一の歓楽街、また世界でも知られた赤線地帯である。しかし、ほとんどの人はその名前がどのように付けられたかを知らない。パッポンを作り有名にした中国系タイビジネスマンのパーソナルヒストリーを...。
この物語の主人公であるウドン パッポンパニッチは前月の10月始め、79歳でバンコクホスピタルで亡くなった。彼は巨万の富を稼ぎ出す帝国を残した。それは今彼の家族たちに引き継がれ経営されている。彼の死はパッポンの終焉の始まりだろうか?はたまた、より発展するために運命づけられたものなのだろうか?
今バンコクを訪れるほとんどの外国の人たちは自分の希望に関係なく、観光場所に組み込まれているせいか一度はパッポンを訪れる。そして、夜には何百万バーツのお金がたくさんの露店、カウンタバー、レストランへ流れて行く。もちろん売春にも...。パッポンではセックスが売られている。しかしその前に、食事代、酒代、ダンス、ロックミュージック、ビデオパーラの代金が補助経費としてかかっている。この儲けは大きい。
名前の由来
今からちょうど50年前、パッポンと知られるこのエリアは荒れた土地で、チーク材で作られた家が1軒しかない場所だった。この家はバンコクのホンコンと上海銀行の本店だった。そして1941年から1945年は日本憲兵隊に徴収されていた。どのようにしてこの静かなバンコクの片隅が世界の歓楽街の1つに成っていったのだろうか。とても興味深い。
パッポンと言う名はもともと中国のハイナン島の中で、通りや人名で見られる。ここは南国なまりでハイラムとして知られている南支那海の島で、移民が何百年の間、タイに流れて来ていた。商才のあるタエチウ、カントニーズやハッカと知られる南中国からの華僑と同じである。
ポーンパット少年12歳も他の中国人と同じく夢を求めてバンコクに今世紀初頭、バンコクにやって来た。ポーンパットはサラブリ県で米を商いとする会社で働き始めた。彼は地方の農家から薬草を買い、バンコクのチャイナタウン.ヤワラートの雇い主の元へ運んでいた。彼は将来を考えて若い中国娘と結婚する。そして、1916年長男が生まれた。その子の名前がウドンである。
そうこうしているうちに、ポーンパットへ人生の転機が訪れた。それは成長するバンコクの建築産業にセメントを供給するため、サラブリにセメント工場が出来たことから始まる。この賢い中国人はセメントの働きには炭酸カルシウムがいつも必要だとすぐに気づいたのだ。ポーンパットはこれがこの地方でも集められることを知っていた。この肥えた稲作地帯の数フィート下にあるのだ。そして彼はすぐに小さいサプライビジネスを始めた。
彼にとって幸運だったのは、このセメント工場がチュラロンコン国王(ラマ5世)が先導するロイヤルプロジェクトだったことだ。このプロジェクトが大きくなるにつれ、ハイナン島の移民のビジネスも大きくなっていった。そしてロイヤルファミリの知るところとなり、その功績に対してナイトの称号が与えられた。“クンルワンパッポンパニッチ”。後でこの名前はタイの新しいファミリネームとなって行く。
ハードワークと幸運にも恵まれて、 クン ルワンパッポンパニッチは彼の息子を最初はイギリスにそして次にアメリカへ留学させることが出来た。このため、ウドンは日本がタイへ侵攻した1941年にはタイの外、アメリカに居た。そこで彼はタイ自由化運動に参加し、日本のアジア侵略に反対運動を行った。そして1945年、彼は日本憲兵隊がシーロムの北部の例の家から退散した2,3ヶ月後に帰ってきた。
その土地と建物はホンコンと上海銀行には戻されず、1956年タイ政府によりオークションに懸けられた。ポーンパットはそこを当時59、000バーツ(約3、000ドル)で競り落とした。中国の何人かの友人にヤワラートからこんなに離れた土地を買うなんて頭でもおかしくなったかと言われたが、ポーンパットはそこをビジネスに利用するつもりはなかった。親戚家族が集って住む一角を作りたかったのだ。
この引退後の構想は彼の息子ウドン パッポンパニッチには理解されていなかった。ウドンはこれからのバンコクは大きくなり開発がこの一角まで伸びて来ると考えいたのだ。その衝突はポーンパットが彼の息子へスリウォンからこの区画までのつなげる道路を6メートルの広さでアレンジするよう命令したことから始まる。
ポーンパットはちょうどこの時フアヒンへ休養に出かけていた。彼は帰ってきて驚いた。ウドンは幅12メートルの道路を作っていたのだ。「あの時は父はとても怒って、私はもう家族から追い出されてしまうと思いましたよ。」当時を振り返ったウドンパッポンパニッチは語った。
ポーンパットが幾ら怒ってもしかたがなかった。もう広い道路が既成事実であるのである。彼はウドンにスリウォンから通りの終わりまで、両脇に店と家を兼ねる建物(ショップハウス)のアレンジをを任した。これがパッポンソーイ1である。しかしここが今の歓楽街に変わってしまうとは当時、誰も考えていなかった。バンコクには赤線地帯はすでに在ったし、怪しげな薄緑のランプが掛かっている青線地帯も、ヤワラートや他の所にも在った。
このとき、ウドンはこの地区のショップハウスに西洋ビジネスマンを呼びたいと考えていた。彼は賃貸の時、デポジットをたくさんとり、月家賃を少なくする中国式のやり方を止めて、最初のデポジットを少なくし、月家賃を高くした。中国式が西洋人に合わないと彼は留学の経験から知っていたのだ。
彼の西洋に合わせたやり方は成功した。まず、最初の客は小さな航空会社のパシフィクオーバ.シーエアサービスであったが、すぐにシェル
オイル、アメリカンジェスターナ、日本航空が続いて入ってきた。そして日本との関係は1954年に強くなっている。このときタイを愛した旧日本兵によって「Mizu's
Kitchen」がオープンしたのだ。
話を戻して、パッポンは航空会社がたくさん入ってきた。Civil
Air Transport(CAT)、Air Vietnam、Air America(ここは後にチベットからインドネシアへの共産主義者の広がりを押さえるCentral
Intelligence Agencyの所有となる。)などである。Air
Americaでたくさんの合衆国兵士や冒険家たちがやって来た。そして彼らと共においしいワインや風俗業や歌なども入って来た。
セックス産業の始まり
パッポンにセックスサービス業が始まったのは1956年10月である。
Mizu's Kitchen 隣にバンコク オンセン マッサージパーラーが出来たのが最初であった。当時を知る記者や作家アランダウソンによれば、ここで働く女性の多くは日本人だったと言うことである。客は主に日本の移住者とタイ警察の将校だった。
1958年にはこのオンセンは無くなったが、このエリアにはすでにバーが並び西洋風の東洋レストランがいっぱいだった。それはパッポンが今の歓楽街に変わる始まりだった。
名前が知られるのは1966年にバーナードトリンクがパッポン地域を、本「バンコク世界」に“バンコクの不夜城“として、バーやレストランのリストを載せてからだ。小さいリストであったが、それによりパッポンは大きくなりバンコクの他の歓楽街を追い抜き、世界でも有名になっていった。
1960年代はピー.バー(お化けバー)の時代だった。お化けはバーで働く女たちを言う。彼女たちは全くバーから給料を貰わない。正式に雇われてはいないのだ。代わりに彼女たちは客たちに個人的サービスをしてチップを貰うのだ。しかし、お化けバーは減り始め、1960年終わりには給料制が始まり1970年の始めにゴーゴーバーが始まってから無くなってしまう。
パッポンセックス産業の成長はベトナム戦争と重なって始まった。それはビジネスとエンターテーメントの地域をバーを本拠地とする赤線歓楽地帯に変えてしまった。パッポンのソーイ1は1969年の終わりには5件だったバーが1970年代の終わりには、100件以上にもなり、それからも数は増え続けた。
その現象で、驚くこともないが、そこを借りていた航空会社や他の会社は、長期賃貸契約をしていたタイダヌ銀行以外は当然のことながら出ていってしまった。タイダヌ銀行も去年とうとう出ていった。そしてそこはゴーゴーバーに変わった。
これからのパッポン通り
ウドン亡き後もパッポン通りは今までのやり方で残り続けるのであろうか。パッポンパニッチ一族はまだこのエリア全てのオーナであり、ウドンの2人の妹ソムタウィンとブーンウィンが管理している。彼らは言う「私たち家族は団結しています。みんながお互いにうまくやっています。ウドンが亡くなっても今すぐにパッポンを変えることはありません。」
彼らが保証しても今のままでパッポンは残り続けることができるのであろうか。世界で有名なナイトライフエリアとして多くの観光客を呼び、年間に何百万ドルをタイ経済にもたらしている。しかし、エイズの時代の中、だんだんと社会の不平等を利用してセックスビジネスで儲ける害悪を気づく者が増え始めている。豊かになって行くタイでは急速にパッポンが時代錯誤で、国の悩ます物になって来ているのではないだろうか。
今のままでパッポンは続いて行くのかと言う疑問の答えは「Yes」とも言えるし、「No」とも言えるだろう。パッポンの稼ぎ出すお金が道徳や健全な社会へと言う意見を黙らせてしまう。しかし、この土地の価値を考えると変わっていってもおかしくない。50年前3000USドルで買われたこの土地は今や数百万ドルの価値がある。しかしパッポンの建物はウドンが1950年代に建てたままのショップも幾つかあるし、この地区にある多くが2階建てである。
高沸するシーロムの賃貸料で各店の財政はどれくらいあと持ちこたえることができるのであろうか。収支で考えればパッポンは今のかたちから変わらなければならない。それはバーやマッサージパーラがシーロムの会社組織に変り、全てが鏡のようなガラスとコンクリートで出来たバンコク.ウオールストリート.ビルディングに変わることかもしれないが...。
上と別の考えとして、再開発されるエリアのある部分は数階建てのエンターテイメント.モールになり、隣の日本エンターテーメント.エリアのタニヤ通りと似たものになるかもしれない。
パッポン通りをそのままに続けるのであれ、変えてしまうのであれ、中国系タイ人の典型であるパッポンパニッチ一族は少しの先見性とハードワークによりきっと成功を収めることだろう。