メーコック川に夕日が沈む時
BY:ダメダメALAN

はじめに

 外道平民の皆様、はじめまして。わたしはノイという名のタイ人です。皆様のバンコックにおける武勇伝はサイトを通して楽しく拝聴させていただいております。では何故あんなにも多くの姫たちが働いているのか、働かなければならないのかという話には興味がありませんか?この話を読んでいただければ皆様の遊びがより味わい深いものになるでしょうし、皆様の姫たちに向ける目が少しでもやさしいものになっていただければと思い、ここに私の体験談を綴ります。
外道の細道





第1章 少女時代

 私の名はノイ、1970年、チェンライ県ノンブア村の農家の5人姉妹の3女として生まれました。両親は10年前ランパーンから親戚を頼ってこの地に来たので自分の田んぼはなく、いわゆる「小作農」として働いていました。収穫の30%を地主にとられてしまうので生活は苦しく村でも一番の貧乏一家でした。

 そんな貧乏一家でも村の人たちからはうらやましがられてました。この地方では昔から女が生まれると盛大な祝い事をするのに男がうまれるとがっかりするという習慣がありました。うらやましがられた理由は5人姉妹だったから、でもその時はなにも分からなかったし自分がまさか将来そんな仕事に就くとは夢にも思っていませんでした。  

 小学校ではジアップが一番の友達でした。彼女の家も貧乏でした。しかしうちのように小作人ではなく田んぼは持っていたのですが父親が博打好きでしょっちゅう借金取りに追われていました。もう一人の友達はナー。彼女の家は裕福だったので私とジアップはいつも彼女から古着や履き古しの靴をもらっていました。そう、私の家は靴を買う余裕さえもなかったのです。勿論、パンツなど履いたことはありませんでした。学校が終わるとジアップと一緒に山へ行き、家族の夕食のためのキノコや野菜を採ってくるのが日課でした。山の中でメーコック川に沈む夕日を見ていると、何故か涙がでてきました。キノコがたくさん採れた時は村の市場に売りに行きました。25スタンか多い時でも50スタン。これで何とか鉛筆が買えます。

 小学4年になった時、小学校を卒業したジアップの姉ジンは父親の命令でハジャイに仕事に行きました。泣きじゃくりながらピックアップに乗せられて連れられていく娘をにやけた顔で見送る父親の顔が今でも忘れられません。しかしジアップの家の生活は以前のままでした。ハジャイから送られてくる金で父親の博打熱は増すばかり、かえって借金を増やすだけでした。ジアップは「私も学校出たらハジャイへ行かされる。」と言っては泣いていました。

 1982年、いよいよ卒業です。卒業と言っても父の農作業の手伝いで学校へは週に1度か2度しか行けなかったし、お金がなく試験も受けていなかった(タイの学校では試験を受けるのにお金がかかる)ので「追い出される」と言った方が正しいでしょう。先生は金持ちの児童と貧乏人の児童を差別していたので卒業写真の時も私は一番後ろのはじっこでした。ジアップはやはりハジャイへいかされることに、ナーは中学校へ進学しました。私は姉二人と同様、家政婦として働くことになりました。ジアップは「あなたの家は私の家より貧乏なのに何で?」と言って私に抱きつき泣きじゃくりました。父は「いくら貧乏でも娘に辛い思いはさせない」と言ってくれていたので、勿論私だってそんな仕事は絶対やだったし、この仕事を選びました。この頃、私は「真面目に仕事していればいつかお金持ちの王子様が迎えに来てくれる。」と信じていたのです。

 ただチェンライ市内に働き口が見つからずパヤオの叔父の家でベビーシッターをすることになりました。月給は200バーツです。叔父がピックアップで迎えに来た時、やはり12歳で家族と別れるのは辛かったのですがジアップのことを思えば我慢できました。それよりも生まれて初めてチェンライ以外の場所へ行くということで少しウキウキしていたのを覚えています。車がパヤオの中心部に差し掛かった時、ちょっと驚いたことがありました。チェンライでは見たことのない綺麗な家があちらこちらに建っているのです。叔父は私の驚きを察したように「あの家は娘が6人、あっちは4人、そっちの赤い屋根の家は5人。」続けて私の家と同じ高床式の藁葺き屋根の家を指差して「あの家は男ばっかりで女が一人もうまれなかったんだよ。可愛そうにな。」ジンとジアップの泣き顔を思い浮かべ、私も涙ぐんでしまいました。「お前の親父も頑固だよな。娘が5人いるんだからその気になればあっというまにあんな立派な家が建つのにな。」

 叔父の家では赤ん坊の世話だけではなく、それこそ何から何までやらされました。朝6時から夜の11時まで休みなしの毎日で仕事が終わると家族を恋しむ暇もなく眠りにつく毎日でした。家に帰れるのは1年に1回、ソンクラーンの1週間だけ。貯めた2,000バーツのお金は全部父親に渡しました。ジンとジアップもソンクラーンには村に帰ってきました。でも家は貧乏なまま。ジアップの父はとうとう闘鶏用の鶏を飼い始めたとか。2人の心もすさんできているのが解りました。かえって私の家の方がチェンライに働きに出ている2人の姉がしょっちゅうなべや皿そしてラジオなどを持ってきてくれていたのでジアップの家にくらべれば裕福に感じられました。

 1985年、3回目のソンクラーン帰省の時のことです。まずジアップの家がコンクリート作りのモダンな家に生まれ変わっていました。ジアップの姉ジンがシンガポール人のミヤノイ(2号さん)になったということで旦那にたのんで20万バーツで建ててもらったそうです。勿論、村一番の家でした。それから村人たちはこぞって娘を売り始めましたが私の父は頑として貧乏に堪えていました。私は頭の中で20万バーツというお金を計算してみました。「1年で2,000バーツだから10年で2万バーツ。ということは」考えているうちにむなしくなってきました。

 もうひとつ我が家にとって大事件が起こっていました。長女が家政婦をしていた家の次男に見初められ結婚していたのです。しかし子供を全員、大学へ行かすような家の両親が貧乏百姓との結婚を許すはずがなく勘当されてほとんど駆け落ち状態で結婚したのです。普通タイでは結婚する場合男が女の両親にかなりの額のお金を渡すしきたりになっているのですが、父は事情を考慮してお金を要求しませんでした。それなのに長女は「嫁入り道具だ」と言って、自分が買い揃えたテレビやラジオ、鍋や皿を全部持っていってしまっていたのです。私はソンクラーン用に貯めておいたわずかなおこずかいで鍋と皿を買いました。

 我が家にとって3人の娘の仕送りは貴重な収入源でした。そのうちの1人が欠けてしまったのです。4女と5女には何とか学校を続けさせたかったのですが4女も家政婦として働くことになりました。この時2女と私と4女は「3人のお金をあわせて5女だけは大学を卒業させよう」と誓い合いました。

 パヤオへ帰る前の晩、2女は私に言いました。「こんなことしてたってどうせ私達は一生貧乏のまま。長女だって貧乏から逃げ出したかったのよ。それに私もジンみたいな家をお母さんにプレゼントしたい。ジンに出来て私にできないわけないでしょ。お父さんに内緒でジンに頼んで私もハジャイに行く。」





第2章 ハジャイ

 ハジャイはタイの最南端の街です。その地理的条件からかシンガポールの男が女をもとめて大挙して押し寄せて来ます。シンガポールでタクシーに乗るとほとんどのドライバーにタイ語が通じます。みんなハジャイへ遊びに行ってるからです。そんな訳で地方都市であるにもかかわらずたくさんの置屋があったのですが客がほとんどシンガポール人であり彼らは色白の女を好むため私達ヌア(北部タイ)は重宝がられていました。ですから私達ヌアは売春しようと決めた時、まずハジャイへ行き、売れなくなってきたらバンコックへ出ていくというのがこの頃の一般的パターンでした。

 結局、半年後、2女はハジャイに行きました。その時ジンはハジャイにアパートを借りてもらいシンガポール人に囲われていたのです。2女は父には「バンコックのレストランへウェイトレスの仕事に行く」とうそをつき、チェンライから3日かけてバスを乗り継ぎ、ジンを尋ねて行ったのでした。ジンは同級生のよしみで2女を自分が以前仕事をしていた置屋のボスに紹介してくれました。こういう段取りで無借金の状態で働き始めると借金を背負わされエージェント付で働かされるよりずっと有利なのですが、その時2女はそんなシステムなぞ知る由もありませんでした。友達を騙してエージェントに売ってしまい幾ばくかの金をせしめる女が多いなかで、ジンは金に困ってなかったし同郷の同級生ということで2女を気遣ってくれたのでしょう。

 働き始めて半年後、2女はあるシンガポール人の客から結婚を申し込まれました。「売春に手を染めたら一生結婚できない。」と思っていた彼女は勿論結婚を承諾しました。彼が申し出た「家族を捨てシンガポール人になってくれ。」という辛い条件も「こんな私が外国人と結婚できる。」という夢の前では色あせていきました。

 彼女はチェンライに帰り父親に懺悔をして今までの事情を話し、タイを去ることを告げました。本当は両親に家をプレゼントしたかったのですが、これからの収入や5女の学校のことを考え、自分が半年で貯めた金と夫から貰った金で家の近くに20ライ(約8,000坪)の田んぼを買いました。これだけの田んぼを親子でやっていけば生活にも困らないし、5女の学費もなんとかなると考えたからです。

 私と4女は家に呼び戻されました。父は泣きながら2女に対する感謝の言葉を述べていました。私も4年ぶりで家族一緒に暮らせるのがうれしかったし、だまって売春したのは許せないのですが、長女に比べれば家族のためにこれだけのことをしてくれたんだし、どうせシンガポールへ行ってしまうのだからと2女を許しました。

 母は腰を痛め農業はできなかったのですが父と4女と私で20ライという広大な自分の田んぼを耕す。やっと我が家にも幸せが訪れました。タイの農業というのはまず農民銀行から借金をしその金で肥料や農薬を買って収穫が終わったら米を売って借金を返すという流れです。この年は土地を手に入れたこともあり銀行から多額の借金をすることができました。父は人手不足や収穫アップを考慮し耕運機を買いました。

 しかし2女が売春をしたことを仏様は許してくれなかったのでしょうか。幸せは長続きしませんでした。この年、何十年に一度という旱魃がチェンライを襲ったのです。タイには灌漑設備がなく農業は雨だけが頼りなのです。米は全く取れません。借金だけが残りました。このままではせっかく手に入れた田んぼも耕運機も銀行に取られてしまいます。父は「マイペンライ」と言っていたのですがこのままでは2女のした事は何だったのでしょうか。

 私は山へ行きメーコックに沈む夕日を見つめていました。一生懸命働いても、体を売っても貧乏人は貧乏のまま。でも今の私に他に何ができるのか。きっと私はこういうレールの上を生きているのだ。ハジャイへ行こう。私の王子様は何処にもいなかったのだ。父にこの決意を告げました。父は怒るどころか「コップ クン」と言って泣き出しました。父にありがとうと言われたのは生まれて初めてです。

 1週間後私はハジャイにいました。銀行の借金は私がハジャイに行って返すという条件でナーの父親に立て替えてもらいました。ジンのアパートを訪ねたのですが別の人が住んでいました。何でもタイ人の男を部屋に連れこんでいたところをシンガポール人の旦那に見つかり追い出されたとのことでした。妹を連れてバンコックに行ったそうです。私は途方に暮れました。帰りのバス賃もないのです。こうなればしょうがない、直接置屋にのり込みました。置屋のボスに2女の事を話したら彼は覚えていました。本当はジンに交渉してもらいたかったのですがしかたなく自分で姉と同じ条件で働かせて欲しいと言ったのですがボスはだめと言います。他の女の子の手前もあるしフリーの女を店に置いても儲からないというのです。この頃のハジャイの置屋のシステムはフリーの女は店と折半、普通は女の親に3万バーツの借金をさせ証文をとり2年間タダ働きということでした。「父親をここへ呼べ」「それはできない」などとやりとりをしていたら店にボスの顔見知りらしいシンガポール人が入ってきました。ボスと何か話し込みそしてボスが私のそばへ来て耳元で囁きます。「おまえ処女か?」。私が「あたりまえだ」。と答えるとまたあの男とヒソヒソ話をしています。2人で一旦店の奥に行き、再び出てきて「お前、あの男と10日間一緒に居ろ。あの男が帰ったらうちへ戻って来い。」と言いながら5,000バーツを手渡されました。私は足が震えました。生まれてこのかたこんな大金を手にした事がなかったからです。

  この男はラムといい簡単なタイ語をしゃべりました。ラムは私をまず病院へ連れて行きました。私が本当に処女かどうか調べてもらうというのです。人前でパンツを脱ぎ股を開くということが17歳の少女にとってどんなことだか分かりますか?覚悟はしていたのですが顔から火が出るほど恥ずかしい。最初にそれをする相手が医者ということがせめてもの救いだと自分にいいきかせました。

 私が処女であることに満足したラムは「15,000バーツも払ってニセモノつかまされたらたまんないからな。」といって私の胸を触りながら笑いを浮かべました。「15,000バーツ?何の事?私が貰ったのは5,000バーツなのに。」私には何が何だか解りません。

 「そんなみすぼらしい服じゃホテルに泊まれない。洋服を買いに行く。」といって次にラムは私をデパートへ連れて行きました。「気に入った服を2,3枚選んでおけ。俺はお前の下着を買ってくるから。」といってデパートの中で一旦別れました。後になって冷静に考えればこの時逃げてしまえば良かったのです。しかしその時はそこまで頭がまわりませんでした。私は生まれて初めて自分で自分の新しい服を買うということに夢中になっていたのです。

 デパートで服を着替え私達はホテルに向かいました。部屋に入ると彼は私の体中になめるような視線を浴びせ「1枚ずつ服を脱げ」と命じました。「いやだ。できない。」と言うと「しょうがない奴だ。」とニヤニヤしながら私の服に手をかけてきました。私は抵抗することができません。このあと10日間、ラムは私をまるでオモチャのようにもてあそびました。最初はとにかく痛くてまともに歩くことができず、ガニマタでトイレに行ったのを覚えています。

 最後の夜、ラムは私に言いました。「明日俺はシンガポールに帰るけど、お前が気に入った。俺の女にしてやる。月に2,000バーツ仕送りしてやるからいなかで待ってろ。時々、抱きにいってやるから。それから置屋に帰る必要はないぞ。俺はもうすでにお前を買い取ったんだから。」そして今月分として2,000バーツと帰りのバス賃200バーツをくれました。正直にいうとこの時私はラムを好きになっていました。初めての男だし私にこんな大金をくれた人は他にいませんでした。それに7,000バーツ!これで借金はすべて返せます。私は彼に父の預金口座の番号と住所を渡し、彼を飛行場まで送り、帰路につきました。バスの中でこの10日間のことを振り返ってみました。ラムはボスに15,000バーツを払った。ラムは私を買い取ったと言った。ボスは私に5,000バーツしかくれなかった。何故ボスは私に10日たったら帰って来いといったのか。

 バスの窓から海が見えた。来る時も見えていたはずなのに気がつかなかった。生まれて初めて見る海だ。大きな仕事をやり終えたという満足感と処女を喪失したという切なさを胸に私はどこまでも続くおおきな海を見つめていました。






第3章 スティサンへ

 ハジャイから帰ってまずナーの家へお金を返しに行きました。家にはナーがいました。私は恥ずかしさでナーから目をそむけるようにしてナーの父に7,000バーツを渡し、お礼をいいました。6,000バーツを借りて7,000バーツを払う約束だったのです。私が帰ろうとするとナーが私を呼び止めました。ナーはチェンマイのカレッジに通っていたのですが学校の休みを利用し帰省中でした。「ノイ、あなた何やったか分かってるの。あなたみたいな女がいるからタイの女はバカにされるのよ。知ってる?タイってすごい国なのよ。学校で習ったけどアジアの中で今まで他の国に占領されたことのないのはタイだけよ。日本だってアメリカに占領されたんだから。それが何よ。私だってチェンマイにいると変な外国人に声をかけられるんだから。今晩どうだって。あなたもジンもジアップも人間じゃないわ。マー(犬)よ。」そう言って父の手から500バーツ札2枚(この時まだ1,000バーツは発行されていない)を取り上げ私に投げつけてよこしました。「もう2度と私の前に顔を出さないで、あなたもジアップも友達じゃないわ。」

 あとで解ったのですが今まで自分の家が村一番の金持ちだと思っていたのに自分の家よりりっぱな家を建てたジンをナーは許せなかったのです。それともうひとつナーはこの時私のいとこのガンといい仲になっていたのです。ガンの家は父親が台湾に出稼ぎに行っていて裕福だったのですが私の家には昔から一切の手助けをしてくれませんでした。私はといえばナーに侮辱され悔しいよりも1,000バーツ返ってきたことが素直に嬉しかった。そしてそんな自分がなさけなかった。「そうだ私は犬なんだ。これからシンガポール人に飼われるんだ。」自分にそう言い聞かせて涙をこらえました。「でもいつかはラムに頼んでりっぱな家を建ててやる。そしてナーを見返してやる。」この5年後、この時は2人にとって未知の国だった日本において私が死体となったナーに再会するなんて、運命とは何と残酷なものなのでしょう。

 私は父と4女と農作業をしながらラムからの便りと送金を待ちました。しかし待てど暮らせどラムからの連絡も送金もありません。6か月待ちました。その頃から村で噂が立ち始めました。「あの家のおてんば娘は身請けされ筆降ろしされ、そして捨てられた。」私にも分かっていました捨てられたことが。これはこの後、ジンと再会した時に知ったのですが、ラムは会社の社長のバカ息子でハジャイ界隈では「バージンキラー」として有名人だそうです。「とにかく私の体は汚され捨てられてしまった。こうなればこの体を使って稼げるだけ稼いでやろう。どうせ百姓してたって一生貧乏のままだし、村人もこんな私を誰も相手にしてくれない。金をかせいで家族を幸せにし、年を取ったら寺へ行って尼になろう。でもハジャイへはもう行けないし。」

 1987年の暮れ、そんなことを考えている時に隣村の女が私の噂を聞いたのか男を連れて私を尋ねてきました。この男はルチンダと名乗る華僑でバンコックのスティサンという場所で置屋を経営しているとのことでした。今も昔もそうですがタイで売春を取りしきっているのはほとんど華僑です。女はこの男の何番目かの妾で一緒にチェンライで売春婦のスカウトをしていました。私も決心はついていたのでこの2人を家に招き入れ、父とともに話を聞くことにしました。父はうわの空でしたが私にとっては売春とはいえ契約は契約です、注意深くこの男の言うことに聞き耳をたてました。ルチンダが言うには彼の店HOME NO.6 は良心的経営である。従業員にはまずその親に30,000バーツの借金をルチンダからしてもらい店で働きながら60,000バーツを返済する。返済が終わったらフリーとなり他で働いてもいいし店と折半で仕事を続けてもいい、という条件でした。「当面、お金には困ってないから最初からフリーで働きたい。」と言うとルチンダは怪訝そうな表情で「これは店の決まりだ。君だけ特別というわけにはいかない。それにフリーで働いても店と折半なのだから3万で6万返しでも結局は同じ事だ。」という非常に明瞭な答えを返してきました。まさかここに罠があるなんてこの時は知る由もありません。それに去年の旱魃が頭をよぎった事もありこの条件を受け入れました。何人か女が集まったら迎えに来る。その時に金を渡すからカムナン(村長)と打ち合わせしておけ、とのことでした。タイでは個人でお金の貸し借りをしたり土地の売買をする時はカムナンに立ち会ってもらい契約書をかわす際の保証人になってもらうのがしきたりです。しかし後になって考えると何かあった時ルチンダはカムナンを味方につけるため立会いを要求したのだと思います。

カムナンはルチンダから立会い料として1,000バーツ受け取りました。私も契約書に一応めを通したのですが細かい字でごちゃごちゃ書いてあり、小学校にさえまともに通ってない私にとって難しい単語がならんでいたので面倒くさくてそのままサインしました。父も同様です。契約を終えるとルチンダは満足げに、「君は色も白いし小さいからお客がたくさん付くぞ。とにかく客にブッキングされたら一生懸命客に尽くして2日、3日、1週間と延長してもらう。それが借金を早く返すコツだ。それから客が甘い言葉をかけてきても一切信用するな。」最後の言葉で私はラムの顔を思い浮かべ、納得しました。調子に乗ったルチンダが「たくさんお金を儲けて何がしたい?」と聞いてきたので、「家を建てたい。それもパヤオでみた2階建ての家」などと能天気な答えを返しました。後からカムナンが「契約書を読んだけどもし借金を返せなかったらまずいことになるぞ。」と言われたのですが、「ルチンダが私ならすぐに返せるって言ったじゃない。心配ない。心配ない。」本当にバカでした。3日後、他の3人の女性とともにバンコックへ向かいました。生まれて初めての首都クルンテープです。






第4章  ホーム ナンバー 6 PART 1



 スティサン。今は寂れてしまい、地元タイ人向けの店が細々と営業を続けているさびれた街になってしまっています。しかし80年代には栄華を極めバンコックで1番の売春地帯でした。当時アラブ人街であったサパンクワイに隣接していることもありアラブ人を中心に香港人、日本人、タイ人、時々はファラン(白人)が女を求めて集まってきていまいた。最盛期には置屋(私達はホームと呼んでいた)が数十件、其々のホームに女が100人以上いたので今のラチャダー以上の女で溢れ返っていました。

 私が働くことになったのは12番通りにあった ナンバー 6 というホームです。通りによって何となくすみわけが出来ていて例えば12番通りはアラブ人向け、6番通り(ソイホック)はショート専門のタイ人向けというようになっていました。ですから営業時間も12番は朝10時から夜12時までなのに対し6番は夜8時から朝5時までというように通りによってずれていました。また店同士でトレード制も確立していて例えば夜12時までに売れないと5時までのホームで客待ちさせられるとかその逆とか、ですからここ一帯の女達はみんな顔見知りになっていました。またここはバンコックのMPやカラオケへの女の供給源でもありました。ここで風俗のサービスのノウハウを覚え、卒業(?)後、各地へ散って行くというパターンです。

 ホームに落ち着くとボスは言いました。「君は若いし経験も少ないようだからまだ2回目ということで5,000バーツくらいで客に売りつけよう。まあ処女だとうそをつくわけにもいかないし。それで5人くらいに売ったらその後は3回目ということで3,000バーツくらいにしよう。それでまた5人くらい客をとったらタマダーに入れ。どうせまだ客にサービスなんかできっこないんだから、とにかく演技でいいから客にぶちこまれたら痛がれよ。特に日本人なんか騙すの簡単だから。」

 自慢するわけではありませんが私はそれこそ飛ぶように売れました。そして演技するまでもなく最初はとてもいたかったです。働き始めて3日目くらいにチェンマイ出身のデンという子が話しかけてきました。ホームに入るなり客に連れ出されっぱなしだったので友達もいなかったのですが彼女は私と気が合いそうな子でした。「あなたまだ3日目でしょ。客に裸みられるの恥ずかしくない?」「恥ずかしいに決まってるじゃない。もうやだ、こんなこと。」「ねえ、この薬飲んでみなさいよ。恥ずかしくなくなるから。」といってアップジョンという薬を1錠くれました。「気に入ったらあとは自分で買いなさいね、普通じゃ買えないけど通りを出たとこの薬局でホームの名前を言えば売ってくれるから」そんな話をしているうちに客がついたのでトイレに行き、さっきデンから貰った薬を飲んでみました。するとどうでしょう客とタクシーに乗っているうちから頭がボーとしてきました。部屋に入り、日本人の客だったのですが、「俺が脱がしてやる。」といって男が私の服を剥ぎ取りはじめても、脱がされてゆくという感覚はあるのですがただそれだけで恥ずかしいとか嫌だという感情はおきないのです。挿入されても痛みもなにもなく、ただこのウットリするような感覚に酔いしれていました。勿論セックスに対する快楽ではありません、薬によって知覚が麻痺していく快楽です。男の下敷きになりながら薄れてゆく記憶のなかで何か大切なことを忘れていることに気がつきました。「そうだ。私は2回目ということになっていたんだ。痛がらなきゃ。」そう思っていきなり「ジェップ、ジェーップ」(痛い、痛い)と叫んだのですがタイ語が日本人に通じるはずがなく顔もこの快感に酔いしれた顔をしていたのでこの日本人は怒りだして何かぐちゃぐちゃ言ったのですが日本語なんか分かりません。ホームで教わった唯一の日本語「お金ちょうだい」を連発しているうちに記憶もうすれてきて、我に返ったときにはホームに戻っていました。

 何日かが過ぎ私もみんなと同じひな壇に並ぶようになりました。そしてみんなと色々しゃべくるようになり段々とホームのしくみとかが分かってきました。ホーム的には私達の定価は1,000バーツ。最低価格は800バーツと決まっていたのですがボスやコンシアが客の顔色をみて2,000とか1,500とかふっかけます。もし2,000で決まったとします。でも私の売上に計上されるのは1,000で残りの1,000はコンシアのものになります。客と出かける時にコンシアが「今日は2,000だからよろしく。」と囁きかけてきて100バーツ程度のチップを渡されるのです。800は閉店まぎわに飛び込んできた客がぐずった時とか、雨とかで客が少ない時、客がとなりのホームへ行きそうになった時の価格です。勿論私達の売上にも800しか計上されません。あとタクシードライバーが客を連れてきた時とかはドライバーへのチップ分も価格に上乗せされます。

 国別の男の気質も分かってきました。例えばアラブ人(サウジ、クウェート)は女を変えません。1週間なら1週間、1人の女をブッキングしその後はディスコへ行ったりパタヤへ連れていってくれたりしてまるで恋人のように扱ってくれます。セックスも非常に淡白で胸にも触らずただ挿入して果てるだけ。そして国の戒律で禁止されているせいかタイへ来るとやたら飲みまくるのです。酔っ払って寝てしまえば私も本来の仕事をしなくて済みます。国では男女交際も厳しいらしくきっとガールフレンドを求める感覚でタイへ来るのでしょう。それに対し日本人は女を買うやいなやホテルに連れこみただやるだけ。それに必ずあそこを舐める。汚いと思わないのでしょうか。それにやたら一緒に風呂に入りたがったりフェラを要求してきたり、私は絶対にしませんでした。たとえ薬でラリッていても。ただひとつチップがいいこと以外、日本人は大嫌いでした。ケンジだけは別でしたけど。タイ人は、もう問題外のそのまた外。最低でした。

 ホームナンバー6は1階がヒナ壇と調理場、2階が私達の宿舎になっていました。宿舎といってもコンクリートの床の上にビニールシートが敷いてあるだけ、ここに雑魚寝です。昼間は客がいない時の待機所となります。調理場はそれこそ戦争でした充分な量を調理してくれないためみんなで喧嘩しながら食事を取り合っていました。その姿は人間ではありません。まるで犬です。女の子の間でもいくつかの派閥ができていましたが私のような一匹狼もいました。私はデンと仲良くしていたのですが、1人だけおかしな子がいました。ダーというパヤオの子なのですが年は23,4かな。なんでも10年近くここで働いているとのこと。父親が離婚して1人でバンコックに住みつき毎週のようにボスに金をせびりにきます。そのため10年経っても借金が終わらずここで働いていました。本来ならば私達のリーダー格なのですが、半分気がふれてしまっているようで1日でもお客が付かないと「オチ0チ0欲しいー」と言って泣き出すのです。ボスは「日本人に抱かせるには最高の女だ。」と言っていました。どうもボスは日本人をバカにしていたようです。

 お金の話をします。以前話したようにまず6万バーツの借金からスタートします。そして客が付いた場合売上は折半となりますが全額ボスが預かることになります。ですから私達は客から貰うチップだけで生活しなければなりません。その他に食事代、宿舎代、水道代などが差し引かれます。これはボスの言い値です。またボスがかってに決めた規則を破るとぺナルティーとして罰金が差し引かれます。例えば仕事中に薬を飲む。客からクレームがつく。生理以外で仕事を休む。女の子同士で喧嘩をする、などです。借金がクリアされ余剰金がある時ある程度貯まるとボスが父親を呼び出し渡します。でもこのような例はほとんどありません。大体の親は借金がクリアされる前にまた金を借りに来てしまうのです。この場合ボスは女の子の売れ具合をみて限度額を決め貸します。勿論倍返しです。こうしてほとんどの女の子は一度ホームに足を入れると抜けられなくなってしまうのです。





第5章  ホーム ナンバー 6 PART 2

 もしあの頃、インターネットがあって「外道の細道」があったとしたら私なんか皆様からイの一番に「マグロ、マグロ」の集中攻撃を受けるでしょうね。「スティサン。ソイ12の6番の店に行って来ました。ひな壇に色白で目がパッチリの女の子発見、さっそく指名しました。名前はノイ、チェンライ出身。だけど気をつけてください。こいつは大マグロです。それに薬でラリッてます。絶対指名しないように。」てな感じですか?だけれども3ヶ月も経つうちに私はホームのNO.1になっていました。アラブ人に人気があったからです。そしてアラブ人を中心に客をとるうちに英語も普通にしゃべれるようになっていきました。

 ホームでは客がいないときは2階で待機し客が入ると呼び鈴を鳴らされるので下へ降りてゆき、ひな壇に並びます。ある時私は階段を降りるとき客の顔が見える場所があるのを発見しました。それからは客が日本人かタイ人またはじじい(18歳の娘にすれば30歳以上の男はみんなじじいです。)だとトイレに逃げ込むのです。逆に若いアラブ人だと我先にとひな壇に並びました。絶対に指名される自信があったのです。でも他の子を指名されてしまい、たまたま入ってきた日本人に私が指名されてしまうこともありました。そういう時は薬です。仕事をしていくうちに薬を飲んでもリポー(タイのリポビタンD)を一緒に飲めば羞恥心がなくなるだけで眠くならなくなる事を発見したのでホテルの部屋に入るとまずミニバーのリポーを飲みました。「勝手に飲むな。」という顔をする日本人もいましたが、そういう時はにらみつけてやりました。私は小学校では番長でしたので喧嘩やガン飛ばしは得意でした。

 ある金曜日の夕方でした。2階で待機しながらデンとおしゃべりをしているといつものように呼び鈴が鳴ります。下に降りていくときふと見ると色黒でアラブの青年のように見えたたのでそそくさとひな壇に並びました。すると何と日本人ではないですか。しかもよりによって私を指名してきた。失敗したと思いあきらめていつものように薬を飲みこの男のもとへいきました。彼は挨拶をし、「英語はしゃべれる?」と聞いてきたので、「勿論。日本人なんかより上手よ。」相手が日本人なので私も最初から挑戦的な態度です。私は経験から日本人というのは下手にでるとつけ上がるけれど横柄な態度をするとおとなしくなることを知っていたのでいつもこうしてました。「そりゃ良かった。僕もタイへ来たばかりだし、こういう店に来るのも初めてだし、言葉が通じなかったらどうしようと思ってたんだ。僕の名はケンジ、よろしく。」といって握手を求めてきました。いつもの日本人と勝手が違う。

 店の前のタクシーを拾い、乗り込むとケンジは「仕事が終わったばかりでお腹すいちゃったんだけど、どこかタイ料理のおいしいレストラン知らない?」えっ、日本人が私を食事に?こんなこと初めてだったので困ってしまい、まさかいつも私が使っているスティサン通りの食堂に連れていくわけにもいかないし、アラブ人に連れていかれたアラブ料理の店以外、私はレストランというものを知りませんでした。しかたなく運転手にタイ語で「このお客、タイ料理が食べたいって言ってるからどっか適当な所へ行って。」途中でリポーを買うことも付け加えました。

 ラチャダー通り沿いのオープンエアーのシーフードレストランに入り、まず私はリポーを飲み干しました。ケンジは「日本人てセックスする前にリポビタンとか飲むんだよね。君もそうなの?」ああ、この人、何か誤解してる。「ええ、そうよ。頑張りましょうね。」今日の私は何かおかしい。この男のせい?彼とは色々と話をしました。日本人とまともな会話をするのはこれが初めてです。彼は日本のブレーキ会社から派遣された技術者で3ヶ月契約でこちらの会社のタイ人社員の技術研修に来ていました。独身で25歳です。故郷新潟の雪の話とか私が今まで聞いたことのないような面白い話をしてくれました。私達はすっかりうちとけ、そのあとボーリング場へ行きました。「もし私が普通の女の子で彼氏が出来たら週末はこんな感じだろうな。」そんなことを考えながら本当に楽しい時間を過ごしました。

 彼の社員寮に行くわけにもいかず、ホテルへ行くことになりました。高いホテルでは彼がかわいそうだし連れこみでは日本人は嫌がるだろうし私は彼をサパンクワイのミドーホテルに連れていきました。私の名前でチェックインします。こうすると日本人がするよりずっと安く泊まれるのです。彼は部屋にはいっても他の日本人のようにすぐに私の体に手をかけてこようとせず、ビールを飲みながら、「僕、あさってまで休みなんだけど明日も君と一緒していいかな?」「オブ コース」私はボスの驚く顔を想像しながらホームへ電話をかけました。「あっ、ノイか、また日本人とトラブルか?」「マイ チャイ。私明日のブッキングを取ったから明日は帰らないよ。」「えっ、あの日本人とか?信じられないな。お前もやればできるじゃないか」

 私はさっきリポーを飲んだ理由を話し、薬を飲まないと仕事が出来ないということを彼に正直に告げました。彼は「じゃあ今日のサービスも期待できないっていうことだね」と言って笑っていました。私は別々にシャワーを浴び彼とベッドに入りました。普段はマグロの私ですがこの時は私の乳首を彼の口元に持っていってあげました。彼はうれしそうにしゃぶっていました。これが私にできる限界です。セックスはと言えば、やはり日本人でした。あそこを舐めてきました。別れ際、彼は私に「来週も会ってくれるかい?」と言いました。私が「私、こう見えても結構売れっ子だから金曜日の朝10時にホームに電話をかけてブッキングして。そうすれば大丈夫だから。私の番号は139番。ノイよ。」日本人はこういうところはきっちりしています。次の金曜日、朝10時きっかりに電話をくれて私をブッキングし、約束通り午後6時きっかりに私を迎えに来てくれました。

 こうしてケンジはこの後3ヶ月の間、週末の2泊3日でずっと私をブッキングしてくれました。一度だけアラブ人に10日間ブッキングされたとき以外は。きっと彼は怒って別の女に乗り換えたのだろうと思っていたのですが次の週、「先週は寂しかったよ。」といって私を連れにきてくれました。彼のように朝電話をくれて夜迎えにきてくれるとこちらとしても大変助かるのです。その日がフリーになるから。約束の時間までにホームへ帰ればいいのです。ですから金曜日の昼間はいつもメリーキングデパートへ行き、彼からもらったチップの一部で彼の2日分の下着と靴下を買ってケンジが来るのを待つという日課でした。薬もケンジなら必要なしでした。

 最初はたくさんチップをくれたケンジですが段々少なくなっていきました。「私を毎週買ってくれて、お金大丈夫なの?」と聞くと、「うん。ちょっと苦しいかな。でも大丈夫。」しかし私はケンジのことを考え泊まるホテルもエリザベス、リバティーとランクを下げていきました。ケンジは「ありがとう。」と言ってくれましたが、リバティーは顔見知りや客のアラブ人がウジャウジャいたので顔を隠して歩くのがつらかった。昼間のデートもウィークエンドマーケットをうろつくとか食事も屋台ですますとかとにかく彼に負担のかからないように気を使いました。ホテルに帰ればケンジがシャワーを浴びている間に脱いだ服をきちんとたたみ、タオルを用意して待ちました。朝は私が用意した下着を彼に差し出しました。これが毎週私を買ってくれて恋人として扱ってくれるケンジに対するできる限りの私からの心遣いでした。彼がセックスで何を求めているかも分かってました。でも口を使ったり相手の性器に直接手を触れることがどうしても出来なかったのです。

 3ヶ月が過ぎいよいよケンジも日本に帰ることになりました。最後の夜も彼は私を買ってくれました。その夜は寝ずに何度も私を求めてきました。他の客だったら「もういいかげんにして。」と言って蹴りをいれてやるのですが、ケンジは特別です。朝まで寝ませんでした。TG640で帰るケンジを空港まで見送りました。ケンジは「当然、君が空港まで来てくれると思って会社の連中は断ったんだけど本当に来てくれて助かったよ。やっぱり一人じゃ寂しいもんね。」そして「ごめん、君にうそついたまま別れるのは心苦しいから本当のことを言うけど、僕25歳じゃなくて32歳なんだ。」といってパスポートを差し出しました。「それに僕、日本に妻と子供がいるんだよね。」私は別れ際にファーストキスを彼にあげる決心をしてたのですが、やめました。ボスの言葉、「客の言うことは一切信用するな。」 





第6章 苦悩そして挫折

 「ノンブア村 ノイ 仕事中の睡眠薬使用により 罰金500バーツ」「客からクレーム 500バーツ」「病院の医者と喧嘩 500バーツ」2階宿舎の壁の掲示板にはしょっちゅうこんな短冊が張り出されました。私は売上もトップでしたが罰金もダントツのトップでした。とにかく毎日仕事があるのは私とデンとその他数人だけ。中には1週間まったく客がつかないという子もいました。そういう子はボスが知り合いの日本語通訳ガイドに頼んで日本人団体客に無理やり売りつけてもらったり、(客をホームまで連れてきちゃうと客だっていい子を選ぶだろうから客をホテルに待たせておいて女の子をホームから連れていって押し付けちゃうんです。しかも法外な値段で。)エロ雑誌のヌードモデルにさせられたり、それでも借金のメドがつかない子はそれこそタイに詳しい皆様でも知らないようなソン、(1回10分10バーツという場所です、主に地方からバンコックへ出稼ぎにきたタイ人の性欲処理の場所です、後にタイにエイズが蔓延する温床の一つとなる場所です。)に連れていかれ働かされていました。

 ある日、私はアラブ人の客とJというディスコにいました。とにかくアラブ人はディスコ好きです。ここはボトルをキープするとカードにスタンプを押してくれて5つたまると景品と交換してくれるのです。ですから私の客はみんなここに連れてきてシーバスを開けさせました。勿論スタンプは私のカードに押してもらいます。こうして毎週のように景品の毛布や食器をゲットし実家に送っていました。連れがトイレに行っている時、となりにやはりタイ人連れで来ていたアラブ人が話しかけてきました。「君、可愛いね。何番のホームにいるの?今度ブッキングしていい?」けっこうイケメンでした。「今の客、明日帰っちゃうから明日だったらいいわよ。でも私すぐに客がつくから早く来ないといなくなっちゃうかも、それよりあなた連れがいるでしょ。どうするの?」とからかってやりました。「あんな女、キャンセルしちゃって明日絶対いくから。えっ、6番の店?139番のノイね、解った。」

 次の日、客を空港まで見送って(私は何日もブッキングしてくれて気に入ったというか嫌じゃなかった客は必ず空港まで見送りに行きます。こうしておくと必ず次もブッキングしてくれるのです。)午後1時頃ホームに戻りました。すると昨日の男が待っているではありませんか。顔にバンドエイドをつけて。「やあノイ、3時間待ったよ。」「どうしたの?その顔。」「やあ昨日の女にキャンセルって言ったら引掻かれちゃった。」かれはハッサンといいアラブS国の国内線のアシスタントパーサーでした。彼はその場で私を1週間ブッキングしました。

 アラブ人の行動パターンは分かっていました。タイへ来ると気に入った女を選びそれを恋人のようにずっと連れ回す。よほどのことがない限り女はチェンジしない。ディスコ、ボーリング、スヌーカー(ビリヤード)と遊びまくり、飲みまくる(本国で禁じられているからです)。日本人程ではないが金払いもいい(香港人、タイ人は最悪)。セックスはいたって淡白、胸も触らず、ただ挿入し腰を振り果てるだけ。私にとって最高の客たちでした。 
 
 ハッサンは帰ってからも毎週のように電話をよこしました。それから3ヶ月に一度、必ず1週間から10日の休みをとって私のもとを訪れるようになりました。1度だけケンジとかちあってしまったのですがすべて仕事です。2日のケンジより10日のハッサンを優先しました。ハッサンはアラブの友達を連れてきて私を見せびらかし自慢したり、私の写真を撮りまくったり、とにかく私にメロメロでした。最高の客でした、彼の前で私は女王のように振舞えばいいのです。彼もそれを喜んでいるようでした。

 こうして私の娼婦生活も1年半を過ぎた頃でした。実家から連絡が入り台風で屋根が吹き飛ばされたとのこと。私は何となく30万バーツ位貯まったら仕事をやめて国へ帰り家を建てようと思っていたのですがこうなれば今までに貯まったお金でとりあえず家を建て直そうと決心しました。自分で計算してみても20万弱はあるはずです。ボスのルチンダに「家を建てたいので親を呼ぶから今までの私の稼ぎを渡して欲しい。」と頼みました。ルチンダは帳簿を取りだし、「7万バーツだな。」次の瞬間、私は彼の胸座をつかみ顔面にパンチを一発浴びせていました。その後罵り合い私は自分の手帳を取りだし帳簿とつき合わせました。皆様思い出してくださいルチンダが最初についた巧妙なうそを。「3万借金の6万返しでも売上を折半でも結局は同じ事。」聡明な皆様ならお分かりですよね。同じじゃないんです。それに所々私の売上が帳簿に載ってませんでした。私の怒りが収まらないのを見かねたルチンダは「じゃあしょうがない。君は売上が良かったから10万バーツあげよう。これからも一生懸命働くんだよ。」私もこの頃には金の価値というものが分かってきてました。1年半、命を削って体を売って、薬を飲みつづけてたった10万バーツ。でもこれ以上ぐずってもしょうがない。しぶしぶこの条件を承諾しました。 父には10万バーツで家を建てるようお願いしました。「ジンの家の半分か。まあしょうがないか。」

 その後ちょっと変な事件が起こりました。いつものように客を空港まで見送りホームに帰るとボスが「ノイ、今日はブッキングが入ってるぞどうもタイ人みたいだけど。」私は日本人以上にタイ人は嫌いだったのですがこれ以上罰金を取られてはたまりません。ホテルに着き、この男は私の上で2回果てそして「そろそろ出ようか。」と言いました。泊まりを覚悟していた私は「ラッキー」と思い「チップ頂戴」と言うと「ああチップね、これ。」といってこの男はあるものを取り出しました。

 警察手帳です。(正確に言えば警察官であることの身分証明書)「売春の現行犯で君を逮捕する。署まで来たまえ、チップはあげられないよ。」何が何だか分かりません。「逮捕するなら何で2回もやるんだ。」そんなバカなことを考えているうちに警察署につきました。つい1時間前に裸をみせた男を相手に生まれて初めての取り調べを受けるというのはそれこそ顔から火が出るほど恥ずかしかった。相手の視線が私の体を見透かしてるようで。その夜は豚小屋のような異臭のする留置所の中で一睡もせずに一晩を過ごしました。ずっと泣いていました。

 次の朝、ルチンダが私の身柄を引き取りに来ました。この時はあんなに憎らしかったボスに心から感謝しました。その時は何も考えなかったのですが、これは後になってハッサンに指摘されて分かったのですが、絶対におかしい。私だけ捕まって他の女の子もホーム自体も手入れを受けないというのは。間違いありません。ルチンダと警察官がグルになって私をハメたのです。あの金のことでの喧嘩が原因でしょう。

 皆様はお金を見せられて股を開く私達を「人間」と見てくれていないかもしれません。「メス犬」と思っているかもしれません。しかしこいつらは人間の生き血を吸う悪魔です。まあこいつら自身が私達のことを「人間」とみてないのでしょうが。私は絶対許せません。今度こいつらに会う機会があったらブッ殺してやります。それから皆様の投稿にMPで「どこそこのコンシアは親切だった。」とかありますよね。すべてとはいいませんがコンシアが私の言うところの「ボス」つまりエージェントを兼ねている場合がままあるのです。こうした場合コンシアは当然自分で「飼っている」女を客に勧めますよね。お風呂からでたあと「僕の紹介した女どうだった?」とコンシアがしつこく聞いてきた時、勿論単にチップが目当てのこともあるでしょうが、私のこの話を思い出してみてください。それとも皆様は楽しいセックスさえできれば女の子の個人的事情など興味ないですか?

 不幸とは続けてやってくるものです。毎日アップジョンでラリって仕事をしていた私はピルをを飲み忘れていたのです。この頃はエイズ騒ぎなどなかったので仕事はすべて生でした。妊娠してしまったのです。勿論誰が父親か分かりません。ボスは有無をいわさず堕胎を命じました。私もその方がいいと思いました。貧乏な上に家族が増えたらますます貧乏になるばかりです。毎週の電話で逮捕と妊娠のことを知ったハッサンは早くタイへ来たがったのですが、どうしてもあと2ヶ月は休暇がとれないと言って泣いてくれました。手術前日の夜、夢のなかに私の赤ちゃんが現れました。彼女はシクシクと泣いていました。私は夢の中で「ごめん。本当にごめんなさい。私、貧乏で今はあなたを生んであげられないの。でも私がお金持ちになったらきっとあなたを生んであげるから、その時はもう一度私のお腹の中に戻ってきて。」夢の中で私は懺悔しました。

 手術から3日後、ボスの命令で客を取らされました。悪魔!





第7章 逃亡そして

 堕胎してから私はまるで抜け殻のようにフラフラと生きていました。もう何もする気力もなく薬で精神を麻痺させ眠りにつけば私が「殺して」しまった赤ん坊の亡霊になやまされる。夢の中ではこの子は日に日に成長しているのです。客に買われホテルにいっても薬の飲みすぎでそのまま寝てしまい、起こされても起きず、ボスがホテルまで迎えに来たこともありました。ハッサンから電話があると、「私が今どうなっているのか分かってるの?仕事なんかどうでもいいから速くタイへ来なさいよ。このバカ。」これがかりそめにも私を買ってくれる客に対する言い草でしょうか。デンともつまらないことで喧嘩になりました。私が悪いのはわかっているのに。心も体も壊れていくのが自分でわかりました。

 それでもハッサンは来てくれました。空港からホームへ向かうタクシーの中で「ノイ、このままじゃ君、死んじゃうぞ。もう仕事やめた方がいいよ。」「私の家貧乏なのよ。それに妹の学費もあるし、仕事はやめられない。小学校しか出ていない私が他に何の仕事ができるというの?」「でも君、目つきまでおかしくなってるよ。とにかく仕事をやめて、そのあとで二人でゆっくり考えようよ。」「そうね、それならあなたもタダで私を抱けるしね。」ハッサンは烈火のごとく怒りはじめました。こんなハッサンをみるのは初めてです。「ごめんなさい。あなたの言う通りにする。」

 ホームへ着くとハッサンはボスに面会を求め私が仕事をやめるので今まで私が稼いだ金を清算するよう告げました。するとボスの口から以外な言葉。「冗談じゃないよ。ノイは堕胎費用、保釈金、ホームの規則を破った罰金、あわせて4万バーツの借金がまだあるんだ。」ハッサンはボスに殴りかかろうとする私の腕を制し、「わかった、とにかく5日間、ノイをブッキングするから。」と言って5,000バーツを払い私達はホームをあとにしました。

 ハッサンはリバティーホテルに着くとすぐさま銀行へ行き口座を開き、そしてS国の友達に電話をかけまくりました。「みんな君のことを知ってる奴らだよ。君のためにカンパしてくれるってさ。ちょっと電話にでてみる?」私が受話器を取ると「ハイ、ノイ、色々大変だったね。ハッサンの部屋の中って知ってる?君の写真でいっぱいなんだ。あんまりハッサンをいじめちゃだめだよ。」今までハッサンを子分のように扱ってきた私に対するハッサンの想い。ハッサンの友達の友情。わたしは涙が止まりませんでした。うれしかった。

 3日後、お金が届きました。この間、ハッサンに薬を取り上げられて飲んでいなかったので、私の頭も正常に戻っていました。「ハッサン、そのお金私に頂戴。あのボスにお金を渡すなんて絶対納得できない。私、逃亡する。」「そんなことしたら君の家族、大変な目にあうんじゃない?」「多分大丈夫。私の他にも逃げた子たくさんいるし。それに私たくさん働いたからボスには絶対損はさせてないはず。」「分かった。君は一度言い出したら止まらない性格だしね。よし、作戦を練ろう。」 

 私はルチンダが私の家を訪ねて来てからのことを事細かにハッサンに話しました。ハッサンは少し考え込んだ後、笑顔を浮かべて、「君をバカにするわけじゃないけど、だからタイ人は華僑や日本人に騙されるんだよ。ねっ、まず3万バーツ借りて6万返し、売上げはホームと折半だったら君は借金を返すために12万バーツ売上げなければならないんだよ。それに借用書のことだけどそれはボスが君のお父さんに10万バーツ渡した時点で終わっている。その後の借金はボスが勝手にやったことで君は何の書類にもサインしてないから返す義務はない。それに君を捕まえた警察官、絶対にボスとグルだ。」

 大学を出た人って頭がいいんですね。小学校出の私にはそこまで頭が回らなかった。こんなことならもっと早くハッサンかケンジに相談するべきだった。ハッサンが立案した計画はこうでした。まずデンに電話してひそかに私の荷物をホテルに届けてもらう。市内に安アパートを借りてそこに身を隠す。私は実家に連絡し父に地元の警察へ行き事情を話し、担当になった警察官に賄賂を渡しておいてもらう。村長にも同様にし賄賂を渡す。実家に私の居場所を聞きに来るのはチェンライに住むボスの女に間違いなかろうから、その女が来たら父に「一緒に警察へ行こう。」と言ってもらう。 

 計画は思った通りにうまくいきました。あとで父に聞いたのですが案の定あの女がやってきたので「警察」と言ったら真っ青な顔して逃げていったそうです。アパートに落ち着いた後ハッサンが「これで僕もホームナンバー6には顔だせないね。」と言うので軽くひっぱたいてやりました。ハッサンは笑顔でこれに答え、「ノイ、ここで僕の帰りを待ってて。国へ帰って君と結婚できるよう両親に相談してくるから。」私は「ありがとう」と答えましたがその気は全くありませんでした。2年間もアラブの客を取ってきたのです。向こうの国の事情も何となくわかっていました。ハッサンの両親が結婚を許すわけないし、私まで外国人と結婚しちゃったら誰が家族の面倒をみるのですか?それにベールで顔を隠して生活するなんて私には出来ません。

 ハッサンが帰って何日かはほっとした気分で過ごしましたが、これからのことがだんだん気になりだしました。ハッサンに貰ったお金はほとんど実家に送金しました。生活の糧がないのです。アパート代も食事代も必要です。かといって人前でオッパイを出して踊ったり、客と一緒にお風呂にはいって口でサービスするなんて私には絶対できません。汚いよ。かといって小学校卒でありつけるまともな仕事ではバンコックでは安アパート代さえも払えないのです。そんなことを考えているうちにふとハッサンが以前言っていたことを思い出しました。「グレースホテルっていうのがあるんだよ。僕も君と知り合う前、泊まったことがあるんだけど結構アラブ人の客も多くてね。そこのホテルの1階にさ、女がたくさんタムロってるんだ。客を取るために。でもおばさんばかりだったんで僕はスティサンに通い始めたんだ。」これなら私にも出来るかもしれない。





第8章 グレースホテル

 グレースホテル。サイアム、レックス、テルメ同様、フリーの娼婦が客を求めて集まる場所。皆様にとっては常識ですね。ここはアラブ人の客が多かったので「仕事場」として選びました。90年の2月から6月までいました。私は二十歳でした。あと皆様はアラブ人は背が大きくてデブな女が好きと思ってらっしゃるかもしれません。年配のアラブ人はそうかも知れませんが、青年の場合は全く逆でしたよ。私は152cm、43キロだったのですが若いアラブの客に売れていたのはスティサンでも私のような体型の女ばかりでした。それにアラブのことを言うならファランはどうなのですか?何でよりによってあんな色黒でブスの女ばかり選ぶのでしょう。世界一有名なロック歌手の日本人妻だって、、、、、。話を本題に戻しましょう。

 グレースで仕事をすることにした私はいかにもそれらしい服装をし、いかにもそれらしい化粧をして出かけました。出かけるといっても場所がどこだか分からないので最初はタクシーで行きました。ドライバーに「グレースホテル」と告げると彼は私をしげしげと見つめ、「これから仕事かい?」「そのつもりなんだけど今日が初めてなの。」「じゃあ最初にショップの責任者に話を通しておいたほうがいい。もしなんだったらオレが話してやろうか?あそこには知り合いがいるんだ。」私がありがとう、お願いしたいというと「へへへ、どうだい?ただでやらしてくれたら客をどんどん紹介するけど、紹介するからには品物を知っとかないと。」娼婦のかっこしてるとみんな平気でこういう口を利くのです。私は怒ってタクシーを降りホテルの中に入りました。

 ドライバーに言われたとおり責任者に合い、ここで客をとりたい旨を伝えパプサション(身分証明書)を見せました。「チェンライ出身20歳か。君だったら他で働いたほうが稼げるんじゃないの?ここの相場はカンクン(泊まり)で500バーツだよ。」「いいの私、アラブ人専門の娼婦なの。」「えっ、何でアラブなの?」「仕事が簡単だから」彼は大笑いし私の肩をたたきました。私だって薬飲んでるんだから何でも言えます。「若い時は短いんだよ。若いうちに何でもやって稼げるだけ稼ぐというのが一般的だけど。君は変わり者か?まあいいや、気に入ったよ。とにかく客をとりに来たら店に100バーツ払うこと。あとは自由だ。ただしこのホテルの泊り客とだけは問題を起こさないでくれ。」

 こうしてグレースホテルでの私の仕事が始まりました。回りを見渡すと30過ぎの女ばかり。アラブ人目当てと思われるエジプトの女も何人かいました。とにかく背が高い。私はスティサンと同じく自分を定価1,000バーツ、最低価格800バーツと決めていました。若いアラブ人の客を狙ったのですがこちらから声をかける勇気はなく何となく狙った客のそばに腰をかけると別の場所にいた日本人に声をかけられることもしばしばでした。そんな時は2,000バーツとふっかけてやるのですがたいていの日本人はOKしてしまうのです。こうして日本人価格はつり上がっていって最高は3,500バーツ(当時のレートは1万円が1,600バーツ)払った日本人がいました。

 ここに集まる女にこちらから声をかけることはなかったのですが一度だけ私と同じ位の年の女の子を見かけたので興味をもって話しかけたことがありました。「私T大学の学生なの。お姉さんたちが仕事して私を大学まで入れてくれたんだけど学費がやっとでお小遣いまではもらえないの。でもうちの大学って金持ちが多いでしょ。友達付き合いするにもお金がかかるからたまにここでアルバイトしてるの。」5女の顔が頭に浮かびました。言葉が言い終わるか終わらないうちに私はこの子に平手打ちをくわせていました。彼女は床にひれ伏し大声で泣き出しました。おおぜいの人が集まってきました。私は支配人室によばれ説教されました。私も我慢できなくなり胸の内をぶちまけました。「私だって5女の学費のために体を売っているのに、あの子と5女が重なってきちゃって」「君の気持ちもわかるけど君は君、彼女は彼女。」私はこの時のことを長い間忘れていたのですが、「プリティー ウーマン」でジュリア ロバーツが支配人室に連れていかれるシーンを見た時、閃光のように思い出しました。

 あの大学生は二度と姿を現しませんでした。私も1週間、出入り禁止となりました。まわりでは「ノイは若いのをいいことに大名商売をやっていたがライバルが現れたので追い出した。」という噂が立ちました。

 そうこうするうちにホテルのスタッフやホテル付きのドライバーとも仲良くなっていきました。前にも書きましたが私はかつて番長をやっていたくらいなので仕事以外では結構男の人とウマがあったのです。そんな時あるタクシードライバーがこんな話を持ちかけてきました。「なあ、ノイこんなとこで体売ってるより1ヶ月で5万バーツ稼げる仕事があるんだけどやってみないか?」「5万バーツ?どうせMPかなんかの仕事でしょ。私やだ。」「バカ、MPで5万バーツも稼げるわけないだろ。日本だよ日本。何でも今めちゃめちゃに景気がいいらしくて人手が足りないんだとさ。レストランで皿洗いやって月給が5万バーツなんだって。」「でも日本人てスケベだし。」「アオカンじゃないの。皿洗い。俺のボスから人集めをするように頼まれてんだ。」「でもそんないい条件だったら私なんかに声かけなくても他にいくらでもいるんじゃない?」「ボスがね、日本人は仕事に厳しいから体を売るくらいの根性のある女じゃないと務まらないんだとさ。」私はちょっとおかしいとも思ったのですが5万バーツに心を奪われてました。それに「日本が景気がいい。」というのは実感がありました。何せ私に3,500バーツも払うバカ(失礼!)がいるのですから。 
 
 私はとにかく話しだけでも聞いてみようと思いドライバーにその私を皿洗いのため日本に連れていってくれるという「ボス」に会えるよう頼みました。「忙しい人だから今すぐにというわけにはいかない。後で連絡するからとにかくホテルには毎日顔出せよ。」何の事はない、次の日ボスに会うことになりました。ドライバーにとある場所に連れていかれ面会したのです。びっくりしました。この界隈では知らぬ人はいない大物です。この人なら信用できる。「ノイだね。話は聞いてるよ。君なら問題ないだろう。頑張れよ。」「でも日本へ行くとなると飛行機代とか高いでしょ。それはいつ払うのですか?」「いや金はかからない。日本で仕事を終えたタイ人が帰国するのに使うため君のパスポートを買ってくれるんだよ。とにかく君のパスポートを作らなくちゃ。故郷に帰ってタビアンバーン(戸籍謄本)を持って来たまえ。後は私の部下が全部やってくれるから。」

 「パスポートって売り買いできるものなんだ。」何も知らない私はそう思いました。皆様、笑わないで下さいね。小学校しか出てない人間の知識なんてこんなものですよ。

 ソンクラーンが近づいたこともあり一旦チェンライへ帰ることにしました。日本では戸籍謄本は役所でコピーを貰えるのですがタイでは原本を各々の家で保管し、必要とあればその原本を使うのです。

 家へ帰ると長女が子供を連れて来ていました。私が抱き上げようとすると長女は、「あなたの体は汚れているのよ。汚い手で私の子供に触らないで。」このわがまま女、誰がこの家の家計を支えていると思ってるんだ。私の気持ちを察した5女が「チャイ ジェン ジェン」(気持ちを落ち着けて)と言ったのですが私は家を飛び出してました。こういう時、私の行くところはあの美しいメーコック川の見える村の裏山です。「みんなで私のことバカにして。今に見ていろ。今度は娼婦じゃない、日本でちゃんとした仕事をして稼いで、月5万だから1年で50万バーツ(計算間違い)、来年のソンクラーンにはみんなをびっくりさせてやる。いや、2年いて百万バーツ貯めてやろうかな。」お金のことを考えていると気が晴れてきました。メーコックも私を祝福しているかのように輝いていました。

 グレースに帰りボスのスタッフにパスポートを作ってもらい、日本行きのお呼びがかかるのを待ちながら仕事を続けていました。そうするうちにボスの部下から一人の女の子を紹介されました。彼女の名はエーン、ランパーン出身の私と同じ20歳でモナリザというMPで働いていました。部下は「彼女は君と一緒に日本へ行く予定だ。まあ仲良くやってくれ。」私達はヌア同士ということもありすぐに仲良くなりました。

 ハッサンから手紙がきました。ハッサンは大きな間違いをしています。私が英語しゃべれるから当然読めると思ったのでしょう。勉強してないのに読めるわけありません。全部耳で覚えた英語です。「I Love You」だけは分かりましたがあとはちんぷんかんぷん。今の私にとっては日本へ行くことのほうが優先です。ごめんハッサン。





第9章 日本へ

 皆様、今までの私の話を読んでタイの娼婦に失望しましたか?でも私は性格的なことや17歳と仕事を始めるのが比較的遅かったこと、そして自分で言うのも気が引けるのですが色白で可愛かったので何ら努力をしなくても客がいくらでもついたこと、等で仕事を仕事と思っていなかったのです。金のためしょうがないからやってるだけ。ボーイフレンドもつくったことはないし、プライベートなセックスもしたことなかったのでセックスは苦痛以外の何物でもありませんでした。

 でもそんな娼婦ばかりではありません。まあエーンの話にも少しつきあってあげてください。この時私はハッサンと顔を合わせては気まずいと思いアパートを解約して日本に行くまでエーンのアパートに間借りしていました。私のとは違いプール付きの素晴らしいアパートです。エーンとは色々な話をしました。

私「あなたいつから仕事はじめたの?」
エーン「12歳でハジャイへ行って15歳でスティサン。16歳でメンスが始まって。18歳でモナリザ。」
私「スティサンからモナリザへはどうやって?」
エーン「逃げたのよ。ボスがずるいから。いくら働いてもぜんぜんお金がたまらないんだもん。先に逃げた友達がモナリザで働いてて、私に仕事紹介してくれたの。ね、あなたも日本いくまでモナリザで働かない?グレースなんかで客とってるよりずっと儲かるわよ。」
私「私、客と一緒にお風呂入るの絶対やだし、あんな汚いものサッキングするなんてできないもの。」
エーン「ノイは頭硬いよ。あんなものカウポート(とうもろこし、タイのは日本より小さい)と思ってしゃぶればいいんだし、どうせベットで裸見られるんだからお風呂で見られても同じでしょ。それにペニスだって汚いまま入れられるより自分で綺麗に洗ってあげてそれから入れられるほうがずっと清潔じゃん。」
私「、、、、、、、、、、、」
エーン「私ね日本行きが決まってから日本語の勉強始めたの。先生は勿論お客、モナリザって日本人の客結構多いのよ。それでね{日本語教えて、教えてくれたらスペシャルサービスしてあげる}って甘えるとそれこそ必死になって教えてくれるの。可愛いのよね。それで最後に{もっと教えてあげるからホテル行かない?}{カンクン2,000バーツよ}{OK}ってもう最高。私、日本人大好き、チップもはずんでくれるし。」
私「でも日本人ってやる前にあそこ舐めてくるでしょ。あれって気持ち悪くて。」
エーン「何言ってるの。舐めてもらって濡れてくるから気持ち良く入るんじゃん。」
私「えっ、アレって気持ちいいの?」
エーン「えっ、あなた知らないの。仕事やってるんでしょ。でもそうね、私も本格的に気持ち良くなってきたのはメンスが始まってからかな。それまでは何だかわからなかった。でも今は気持ちイイことしてお金が貰えて言うことないわ。私ファランとかタイ人嫌いなの。かってにいっちゃうでしょ。でも日本人てこっちをいかせてくれるのよ。」
私「あなたってほんとタルンね。私はだめ。好きな相手だったらむこうが満足する顔をみてこっちも満足するってとこかな。日本人で一人だけいたんだよね。」
エーン「(私の話を無視して)客から聞いたんだけど日本にもMPってあるんだって。それで1回8,000バーツなんだってさ。モナリザの10倍だよ。私日本へ行ったら皿洗いの店なんか逃げちゃってさ、日本のMPで働こうと思うの。そしたら客は全部日本人だしさ。そしたら私を好きになっちゃう男が現れてさ、結婚しちゃったりして、ハハハ。」

 ちなみにエーンは本当に日本人と結婚し子供をもうけ、いまでは子育てを旦那にまかせ昼はパチンコ、夜はタイスナックのママと人生を謳歌しています。私にもこんな磊落な生き方ができたらな。

 6月になって日本行きのゴーサインが出ました。私は仕事でアラブ人とパタヤにいたのですが呼び戻されました。この時はどこにいても連絡がつくようにボスの部下に連絡場所を知らせておいたのです。日本へ行くのは私とエーンと「あなた達を日本に運ぶのが私の仕事よ」と言った中年の女性の3人。この時からちょっとおかしいと思うようになりましたがもうどうにもなりません。

 生まれて初めての飛行機でした。TG640です。見るもの全てめずらしかった。離陸後この中年が別のパスポートを私に差し出して、「成田に着いたらこのパスポートで入管を通って。それからあなたのパスポートは私が預かっておく。」渡されたパスポートには私に何となく似ているけれど私より年上のタイ人の写真が貼ってありました。名前は勿論、私の名前ではありません。エーンも同様です。皆様はこれが何を意味するかわかりますよね。私にはわかりませんでした。今では考えられないでしょうが成田の入管ではこのパスポートを使って「Sightseeing?」「Yes」で通ってしまいました。

 税関を通ると2人の日本人が私達を待っていました。5人で用意してあったワゴン車に乗り込み高速道路へと入りました。あの中年女性は日本語が達者で日本人としゃべくっています。私とエーンは一番後ろの席に座っていたのですがエーンが私に小声で「ノイ私達売られたみたいよ。」「えっ、皿洗いの仕事じゃないの?」「私日本語勉強したって言ったでしょ。話が少しだけわかるの。でも私はいいわ。どうせMPで働くつもりでいたんだもの。」私は頭の中が真っ白になりました。「やっと娼婦の仕事から足を洗えたと思ったのに。それにここは日本、客も当然日本人ばかり。アップジョンなしでどうやって仕事をしろというの?」

 新宿のとあるマンションで一夜を明かすと次の日「スナックのママ」と称する日本人が私達を「買い」に来ました。そのまま私達は東京近郊のある町のスナックに連れていかれました。





第10章 タイスナック「フランソワーズ」

 1990年6月20日、私の日本での「仕事」が始まった日です。フランソワーズに着くとママが私とエーンを皆に紹介しました。7人のタイ人が働いていたのですが何とみんな私より年下、最年少は1*歳でした。ママはタイ人の一人を通訳にたて「あなたが日本に密入国するのに莫大な費用がかかっている。私がそれを立て替えた。だから今から9ヶ月間ここで働いてもらう。ショートが2万5千円で泊まりが3万5千、あなたの取り分はどちらでも1万円よ。但し最初の30人分は全額店が貰うから。9ヶ月経ったら預かってるパスポートを返してあげるから他の店に行って働いて。ウチは新人しか置かない方針だから。」何を勝手なこと言ってるんだ。結局スティサンのボスと同じじゃないか。ママは続けて「タイの子は最初これをやらないんで困っちゃうんだけど日本には日本のしきたりがあるの。ホテルに行ったらお客さんと一緒にお風呂に入ること。シャワーだけじゃダメよ。湯船につかるのが日本人の習慣なんだから。それとベッドでは必ず口のサービスをする。これをしないと怒る日本人が多いんだからね。」エーンは「あたりまえじゃん。」ていう顔してます。私は聞いてないフリをしてました。
 
 ママの夫は地元のヤクザの幹部でした。その関係でフランソワーズの客のほとんどはその道の関係者か土建関係の人でした。最初の日店が始まるとそれこそすぐ客がつきました。店がホテル街の入り口にあったのでそのまま歩いてホテルに直行です。ここの店の客はスティサンに来ていた日本人とは比べものにならないくらいひどい客が多かったです。「しゃぶらんかい。」と言いながら私の髪の毛を鷲掴みにし自分の股間を押し付けてくる客もいました。タイ人にとって頭はピー(精霊)が宿る場所です。こんなこと絶対に許せません。シャワーも浴びず裸になってベッドの上に大の字になり、「やれ!」っと言ってやります。「売女のくせに気取るんじゃねー!」と怒鳴られひっぱたかれたこともあります。薬があればもう少しは何とかなるのですがここは日本。手に入るはずがありません。薬がないとまるっきり私の「地」がでてしまうのです。

 店の女の子に聞いたのですが、ある製薬会社のセキ止めシロップを1瓶飲み干すと薬を飲んだと同じ効果があるのです。(作者注:今は製薬会社がこのことを知り成分を変えてしまったので効きません。良い子は絶対マネしないように。)このおかげで少しは落ち着いて仕事をこなすようになったのですが皆様の言う「マグロ」であることに変わりはありません。客からもだいぶ苦情がきたようでママからしょっちゅうこごとを言われました。でもそんなの何処吹く風です。誰が騙したんだ。

 店に顔を出す客はとにかく一度は私を指名しましたが二度目に指名してくれる客はほとんどいませんでした。逆にエーンは指名こそ少なかったのですが一度指名された客を必ず「リピーター」にしていました。他の子も概ね商売熱心で客の股間に手をやりながら「今日、ホテル行く?」などと誘いをかけていました。ここでの仕事は客をとらない限り、いくら接客しても一銭にもなりません。でも私には絶対出来ません。エーンは日本語がどんどん上手になり日本の歌もカラオケで歌えるようになりました。私は「安奈」をタイ語で歌うだけでした。日本に来るまでこの歌はタイの歌だと思ってました。

 こんなこともありました。ママの夫が組のゴルフコンペの打ち上げをフランソワーズでやったのです。店を休みにして。そしてコンペの商品が私たちです。1等賞はエーンで私はブービー賞でした。「ブービーが一番いいじゃないか。」と言った招待客がいましたが、となりに座っていたヤクザが、「あいつははねっかえりでしかもマグロでどうしようもない奴なんですよ。」とささやいていました。ヤクザ達は私達をホテルに連れこみ、弄んでそして帰っていきました。

 この夜は初めての「仕事明け」でした。普通この手の店は休みなどないのです。ママが「今日はうちで賭博やるからやりたい人はついておいで。ごちそうも用意してあるよ。」というと私とエーン以外はみんなついていきました。ついていかないとママの機嫌を損ねるらしいのですが、そんなこと知ったこっちゃない。

 私も日本へ来て以来、毎日仕事だったのでエーンと二人で過ごすのは初めてです。スナックの2階の宿舎でふとんに入るとエーンは「それにしてもタイ人はレンパイ(賭け事)が好きだよね。私はやだ。せっかく稼いだ大切なお金だもん、レンパイでまきあげられたらたまったもんじゃない。」と言いました。トッポくみえるエーンですがこういうところはしっかりしています。「日本てすごいよね。私もう結構お金貯まっちゃった。あの有名な土建屋の社長、この前たっぷりサービスしてあげたらチップ10万(このころはバブルでした)もくれたの。チップがいいって話は聞いてたけどこんなにくれるなんてびっくりしちゃった。」「あの人私ともデートしたけどチップなんかくれなかったわよ。」「あなたもうそろそろその硬い頭何とかしなさいよ。ここは日本よ、あっちこっちにお金が落ちてるんだから。自分の仕事に自覚を持って、客にサービスすればいくらだってお金稼げるんだから。何だったら下の冷蔵庫にバナナがあるからアレのやり方教えてあげようか?」「あなたって本当にタルンね。それよりここの客ひどすぎる。私もうやってけない。」「それはそうと、これ噂なんだけど1階のトイレ、あなた夜変な音聞いたことない?」「私、仕事続きで夜ここで寝るの初めてだもの、それって怖い話?」「何で私よりあなたの方が売れるの、もう、まあいいわ何年か前ちょうどあなたみたいなタイ人が悩んだ末にあのトイレで首吊り自殺したらしいの。死体はママの旦那が適当に処理したらしいんだけど、それ以来夜になるとすすり泣く声が聞こえるらしいの。私も聞いたことある。」
 こんなとりとめのない話をしながら一夜を明かしました。私こんなとこにいるの本当に嫌です。

 2週間が過ぎたある日、ここの客層とは明らかに違うこざっぱりとした服装の客がやってきました。銀縁の眼鏡をかけたその風貌は何となくケンジに似ていました。私が客のいない席にふてくされた顔をして座っていると私に手招きするのでしかたなくその男の席につきました。男は「名前は?」とか「何歳?」とか「君、色白だからチェンマイでしょ。」と話かけてきます。うざったいので「No speak Japanese」と言うと今度は英語でしゃべりかけてきました。考えてみると来日以来、日本人とまともに会話するのはこれが初めてです。「ノイちゃん彼氏いるの?」と聞いてくるので「S国に彼氏がいるの。国に帰ったら結婚するんだ。だから私の英語ってアラブ訛りでしょ。」と言ってやりました。「ああそうなんだ。僕の英語もフィリピン訛りでしょ。フィリピンクラブで覚えたんだ。僕も日本人の彼女がいてね。本当はもっと遊びたいんだけど来年あたり結婚かな。もう僕も34だし。」本当に嫌な奴だ。ケンジとは全然違う。でもケンジだって私に嘘をついていた。正直なだけこの男のほうがマシか。彼はコウイチという名でこの街で小さな会社を経営していました。「僕、ベタベタしてくる女って嫌いなんだよね。ノイちゃんみたいな子がいいな。僕、前にもタイの女の子に彼女いないってことにしてつきあったことあるんだけど、やっぱり気まずくなっちゃうんだよね。君にも彼氏がいて僕にも彼女がいるってことでドライなつきあいしようよ。」 ここをどんな店だと思ってるんだ。勝手にほざきやがれ。このバカ。
 コウイチは2時間位陽気にしゃべくって帰っていきました。帰りにそっとチップを置いていきました。こんちゅくしょう。だけどチップくれたから許してやるか。

 3日後、店を開けると外でコウイチが待っていました。「ノイちゃん今日誕生日でしょ。バースデイケーキ持ってきたよ。」と言って店に入ってきました。」忘れていたのですがこの前色々と聞かれた時に今日が誕生日であることを告げていたのです。「ノイちゃんすぐ売れちゃうっていうから早くから来て待ってたんだ。」

 誕生パーティーが始まりました。とにかくタイ人は誕生パーティーが大好きです。みんなお客そっちのけで盛り上がっていました。エーンが「ノイどうしたのよ。うまく男たらしこんで。こいつあんたに気があるんじゃない?」とささやきかけてきました。「やだ、こんなチャラチャラした女ったらし。私が好きなのはスタローンみたいな男らしい人。」と答えましたが、私にとって誕生日を祝ってもらうのは生まれて初めてだったのでうれしくてたまりませんでした。コウイチは「盛り上がったところでノイちゃん、今日は僕とデートしてくれるかな?君が好きだって言ってたランボーの3部作、用意してあるよ。僕、一人暮しだから大丈夫。これからうち帰って一緒にビデオ見よ。」






第11章  帰国

 「人間とてこの地球上における一種の生命体である。そしてあらゆる生命体は創造主から種族保存の本能をインプットされている。種族保存の手段とは進化であり進化の手段とは生殖である。下等生物は一度に多数の子孫を産み、その中でよりすぐれた遺伝子の組み合わせを持った個体だけが生き残り次の世代の生殖にかかわることによって進化を遂げていくが、人間のように子孫を産む数が限られてしまっている高等生物はあらかじめメンデルの法則、特に優性の法則に合致する遺伝子を持った交配相手を本能的に識別するんだ。人はこれを「恋」と呼ぶ。つまり恋とは非常に単純な大脳生理学的現象なんだよ。わかるかいノイちゃん?」ランボーに夢中になっている私の横でコウイチがゴチャゴチャしゃべっています。

 「私、小学校しか出てないからそんな難しい単語並べられてもちんぷんかんぷんよ。何がいいたいの?あっ、ちょっとこれ見て。タイのお寺。ランボーはタイに住んでいるのよ。」「ランボーって鼻が高いでしょ。かっこいいって憧れるよね。鼻が高いってことは酸素摂取能力が高いっていうことだよね。つまり生存に適している、それを君の本能が感じ取るから好きになるしセックスしたくなるんだよ。彼は鼻を高くする遺伝子を持っているのさ。」「あなたさっきからゴチャゴチャ何が言いたいの?それに私、男となんかセックスしたくないよ。仕事だからしょうがなくやってるの。」「いやつまり昔は交通手段が発達してなかったから遺伝子の交雑は地域性が限られていた。僕の遺伝子は何千年もの間、日本で培われてきたものだし君のはタイの山奥で。全く違う遺伝子だから僕の遺伝子が本能的に君の遺伝子を求めるんだよ。種が遠いといい子孫ができるって言うでしょ。」「もしかして私のことが好きって言いたいの?」「そう言われちゃうと身も蓋もないけど。」コウイチは話題をそらすようにビデオを取り替えています。

 「あなた最初からおかしいと思ってたんだけど私をくどいてどうしようっていうの。私の仕事何だか知ってるでしょ。今だって裸になれって言われればなるし、やらせろって言われればやらせるし。」「いや何ていうかセックスって心のふれあいというか、そういうのがあってやるから楽しいわけでしょ。勿論、お金は払うから、受け取ったらノイちゃんもそこで仕事は終わりと考えてもらって、その後の時間は僕とプライベートで付き合うって考えてくれればうれしいんだけどな。」

 ほんとにこいつバカじゃないかと思いました。まさかこのあとコウイチが私の救世主になるなんて。この後コウイチは毎日のように私を買いにきました。何日も一緒にいればだんだん心も打ち解けてきます。ある日私は今までのことを全てコウイチに話し、心の中のもやもやをぶちまけました。「私、フランソワーズは絶対いや!」「うん、そうだな。ノイの性格じゃ日本での仕事は務まらないね。でもそのハッサンていう男、ちょっと可哀想じゃない?もしかしてノイの婚約者ってハッサンのこと?」「あれは嘘ついたの。私に婚約者なんているわけないでしょ。コウイチはいいよね。会社が順調で、来年は結婚するし、これからUPの人生よね。私はDOWNしていくだけ。」コウイチは少し考え込んで「いや、そうとも限らないよ。」この夜、私は初めてママに言われた通りの仕事をしました。

 それからプッツリとコウイチは来なくなりました。「やっぱり日本人は人を騙すのが平気なんだ。私にアレをやらすのが目的でやさしくしてただけなんだ。」そう自分に言い聞かせました。数日後の昼間、私はママの家に呼ばれました。私はどうせまた客の苦情で小言いわれるんだと思いながらも逆らうわけにいかないので家に向かいました。家に着くと何とコウイチがいるではありませんか。ママは私に、「コウイチさんがあなたを身請けしたいって言ってるけどどうする?あなたの自由よ。」何を言われているのか分かりません。コウイチが英語で通訳してくれました。「そういうこと。僕はノイの望みをかなえたつもりだけど嫌だったらかまわないよ。」頭が真っ白になりました。私は涙をこらえて首をたてにふっていました。
 
 私の娼婦生活はこのようにあっけなく終わりました。ママからパスポートを返してもらい、コウイチと一緒に荷物を取りに店に帰りました。みんなに別れを告げ、とにかく一刻も早くこの店から離れたかったので、そそくさと店を後にしました。別れ際にエーンが、「ノイ、うまくやったじゃない。あなたのどこにそんな才能があったの?セックスもへたくそなのに。あのさ、1ヶ月くらいたったら逃げ出っしゃいなさいよ。そしたら日本中どっこでもフリーで働けるでしょ。お金バンバン稼げるわよ。」

 コウイチは私を会社の従業員用に借りていたアパートに連れていきました。私がしゃべろうとするとそれを制して、「実はママの旦那の親分、うちの会社のお客さんだったんだ。そっちに頼んだらすんなりさ。でもノイを1ヶ月間連れ出す位の金はかかったけどね。それよりパスポートちょっと見せてよ。」コウイチは私のパスポートを見ると顔を曇らせ、「このパスポート、入国ビザが押してないじゃないか。」私が事情を説明すると、「何でそれを先に言ってくれなかったの。3ヶ月のビザがあると思ったからこそパスポート取り返したんじゃないか。本来のノイのビザはオーバーステイしていたタイ人を国に連れ戻すために使われちゃったんだよ。ビザがあと2ヶ月残ってると思ったから、その間はノイとやり狂ってビザが切れる前にタイへ帰そうと思って身請けしたのに。」

 やっぱりそんな魂胆かこのスケベ男は。「つまり1ヶ月分のお金で私を2ヶ月分楽しもうと。」「地獄の底から救ってやった男にその言い方はないだろ。ビザが心配だったから、ビザ切らっしゃうと手続きが面倒だし、1年間入国出来なくなるし(現在は5年間)。」「わかった、しばらくは帰らない。あなたの好きにして。とにかくアオカンの仕事はもう嫌。」

  結局私はコウイチの会社で下働きをすることになりました。「タイから研修に来た。」ということで働き始めたのですが会社のスタッフ達はうすうす気づいていたようです。でも私にとっては新鮮で楽しい毎日でした。何よりもやっと娼婦の仕事から手を切れたのです。

 最初のうちは気にならなかったのですが、だんだんコウイチのことが気になり始めました。好きになってしまったのです。そうなると嫉妬の炎がメラメラと心の中で燃え上がります。コウイチはしょっちゅう友達とフィリピンクラブとかタイスナックとか飲み歩いていたし、日本人の彼女が泊まりに来た日はアパートに顔を出しません。そんな夜はアパートで一人寝していると寂しくて、切なくて。だんだんと喧嘩もするようになりました。喧嘩が原因でコウイチが何日もアパートに顔を出さないこともあり、私がフランソワーズの2階に泊まることもありました。そんな時は決まってエーンが、「いいチャンスだから逃げちゃいなさいよ。東京で働けばここよりもっと儲かるらしいわよ。ショート3万の泊まり5万だって。そしたらコウイチは私が貰うから、だって日本人で私達を人間扱いしてくれたの彼だけでしょ。」 

 私達は喧嘩したり仲直りしたりしながら4ヵ月を過ごしました。11月になってコウイチは言いました。「多分このままじゃ僕達ダメになるよね。僕は最初から彼女がいるって君にいってあったし、今まで僕の方から友達誘って飲みにいってたんだから、ノイとこうなったからって友達の誘い断るのは男じゃないし。」「私と友達とどっちが大事なの!」「どっちていう問題じゃないでしょ。思うんだけどノイは今、水槽に入れられた鯉なんだよ。自由に出来ないから息苦しくなるし、キート ヨー(色々考える)でしょ。一度、大きな川へ戻ってみたら?」

 大きな川、この言葉を聞いた時あのメーコック川に沈む夕日の光景がまるで映画のシーンのように浮かんできました。そうだ、故郷に帰りたい。家族にあいたい。でもそうしたらコウイチとは別れることになるだろう。私が初めて愛した人だから離れたくない。「一度帰って、ビザを取りなおして、堂々とこのアパートに戻ってくればいいじゃない。不法滞在のままじゃ不安でしょ。」確かにいつかは捕まるんじゃないかという不安はありました。落ち着かない日々でした。「でも帰っちゃったら1年間は日本に来れないんでしょ。そしたらコウイチは結婚しちゃってるだろうし、別の女つくってるだろうし。」「信用ないな、まあしょうがないか。あのさ、君の本名ってアルファベットでphaって書く部分があるでしょ。タイへ帰ったらパスポートなくしたことにして再発行してもらうんだ。但し、申請書を書く時、その部分をpaと書く、ここがポイントだから。そうすれば成田のコンピューターなんかちょろいよ。偽造パスポートなんかやばいけど、これなら本物のパスポートだからね。」「あなた何でそんな事知ってるの?」「だてに外国人の女の子と遊んでるわけじゃないさ。」

 私はコウイチを100%信用していたわけではありません。私はコウイチに捨てられた時のための決心をしていました。「私は二度と娼婦はやらない、もうコリゴリ。でも妹だけは大学を卒業させてあげたい。だからあと10ライの田んぼが欲しい。私が耕す。それと私は結婚しない、だから私だけの部屋を増築したい。そのお金コウイチがだしてくれたらタイへ帰る。それとコウイチが私を家まで送ってくれること。」「それって僕のこと全く信用してないってことだよね。まあノイの部屋っていうんじゃなくてノイと僕の部屋っていうんなら出してもいいよ。4ヵ月間、ノイのあそこにもだいぶお世話になったし。」「タルン!」

 大手町の入管に出頭しました。簡易裁判で難民認定法違反により国外退去と1年間の入国禁止を言い渡されました。そして帰国となったのですが強制退去で帰国したタイ人がバンコックの入管で取調べを受け、賄賂を要求されたという噂を聞いたので、トランジットでチェンマイに行くことにしました(このころチェンライはまだ国際空港ではなかった)。チェンマイの入管は無事通過しましたが税関で日本から持ちかえったラジカセのタックスを要求され、おみやげ用のりんごを5個取られました。さてここから私の家までタクシーで3時間です。





第12章 我が家の高度成長

 前章で私の娼婦生活は終わってしまいました。僅か2年半の出来事でした。でも、十数年経った今でもトラウマとして残っています。多分、一生消えることはないでしょう。この先を読んでいただければわかると思いますが、私は数十万のタイ人娼婦の中でも最も幸運で幸せな人生を送れたうちの一人だと思います。でも結局、娼婦を出した家庭は幸せにはなれないのです。外道平民の皆様にはこの先は興味ないかもしれませんが、あと3章ほど、私の話におつきあい下さい。 

 1990年12月5日、王様の誕生日に私は生まれ故郷に帰りました。コウイチにとって初めてのタイです。家族は涙で迎えてくれました。コウイチは村の印象を、「なつかしいね。子供の頃を思い出すよ。昔は日本もこうだったんだ。となりのおばさんが醤油借りに来たり、金持ちの家に集まってみんなでテレビ見たり。」と言っていました。しかしその視線は若い娘を追いかけ、「可愛い娘ばっかりじゃん、しかもノイみたいな使い古しじゃない。うーん、遺伝子が騒ぐ。」って騒いでるのは自分でしょ!

 コウイチが「冷えたビールが飲みたい、氷を浮かべたビールなんかやだ。」とダダをこね始めました。でもこの村に電気が通ったのはまだ5年前、冷蔵庫を持っている家庭などありません、冷蔵庫を買うことになりました。どうせコウイチのお金です。2ドアの冷凍庫付きを買わせました。ついでにNTSC,PAL切り替えのできるカラーテレビも、日本から持ちかえったスーパーファミコンで遊びたかったからです。

 村では「コン ジープンが来た。」と大騒ぎになりました。日本人がこの村にやってきたのはコウイチが初めてです。見物人がぞくぞくとやって来ます。コウイチは村のよろず屋のメコンとビールを買い占め、村人達にふるまいはじめました。子供達も初めて見るテレビゲームに群がっています。家の中はてんやわんやになりましたが両親もコウイチも本当に楽しそうでした。狂乱の3日が過ぎコウイチは日本に帰りました。帰り際コウイチは「ノイの村って最高!2ヶ月経ったら絶対に戻ってくるから。」と言って残ったお金を全部置いていきました。ああ失敗した。冷蔵庫、一番安いのにしておけば良かった。

 早速、私はコウイチに言われた通りにパスポートを作りました。そして家の増築です。コウイチは「どうせ増築するなら湯船のついた風呂もつくって、やっぱり日本人はシャワーだけじゃものたりないよ。」と言っていたのですがタイ人に湯船は必要ありません。もしコウイチが戻ってこなかったら無駄になります。戦争時代、日本兵相手に卵を売っていたことのある父は、「日本人は礼儀正しい。礼をつくせば礼で返してくれる。おまえが言われた通りにすれば必ず戻ってきくれるよ。」と言うので断腸の思いで風呂場を作りました。

 4女の発案で氷を売ることにしました。ビニール袋に水を詰め輪ゴムで縛って、それをコウイチが買った冷蔵庫で氷にして売るのです。1つ1バーツです。1日50個作るのがやっとだったのですが、飛ぶように売れました。我が家にとって1日50バーツは貴重な収入です。2ヶ月後、本当にコウイチは戻ってきました。氷の話をすると、「ノイの家族、やるじゃん。僕、前にフィリピンの女の子と仲良くなってフィリピンまで行ったことあるんだけど、僕が顔出したとたんに家族のみんなが仕事やめっちゃってね。要するに僕からの送金をあてにしたんだな。その後彼女から父親が病気とか何とか、金をせびる電話攻撃さ。勿論、別れちゃったけどね。ノイの家族はえらいよ。そういうことならいいアイデアがあるんだ。」と言って電話を買いました。私の村に電話などありません。コウイチと連絡をとる時もあらかじめ日時を約束しておいて、私が40分かけて市内の電話取り次ぎ所まで行きコウイチからの国際電話を待つのです。混雑している時は2時間待たされることもありました。コウイチも日本から何時間もかけ続けないとつながらないこともありました。

 ノンブア村だけでなく近所の村にも電話線が通っていませんでした。そこでコウイチが買ったのは無線電話です。庭に15mのアンテナを建て費用は7万バーツかかりました。電話番号は今の携帯と同じく01で始まる番号です。「日本でちょこっとつきあったことのあるタイの女の子からね、彼女の村にこれで大儲けした奴がいるって話聞いたことあったんだ。市内の取次ぎ所よりちょっと安い料金でやればバッチリだと思うよ。」母と4女が中心となって、我が家も電話取次ぎ業をはじめました。近隣の村、というよりも私の郡、唯一の電話業です。コウイチの言ったことは本当でした。この電話はとんでもない富を我が家にもたらしました。仕事は大変でした、電話を受けると相手を呼びにいかなければならないので4女と母は朝から晩まで村中を、いや近所の村までも駆け回っていました。

 ああ、もし3年前、いや5年前にこの電話機があれば私も2女も体を売る必要などなかった。お金って本当に不思議です。貧乏な時は必死で働いても全然貯まらないのに、一度貯まり出すと自然に増えていくのです。家の増築も終わり、勿論村で一番の家になりました。私とコウイチは村の有名人になりました。第2の私をめざして日本行きのラッシュが始まりました。女は私のように借金を背負わされ、売られるのですが、男はこの当時で10万バーツ以上の支度金を用意しないと日本に密入国させて貰えません。そういう時はうちに田んぼを売りに来るのです。村でこれだけのお金を現金で用意できるのはうちだけでしたから。ついこの間までは村で一番貧乏だったのに。田んぼが増えると小作人を雇い、我が家はますます裕福になりました。さらに村人の日本熱が高まります。その中に密かに私への嫉妬心を燃やしていた、あのナーもいました。

 話はコウイチが2度目にやってきた時に戻ります。1991年の2月です。ビザを取るため2人でバンコックに行きました。今では信じられないでしょうがこの当時は日本人が大使館へ行ってパスポートを見せ、「友人を日本に招待したい。」と言って、身元保証書にサインをすれば、その場でビザがおりたのです。こんな簡単なのに、わざわざ借金を背負ったり、10万バーツ用意したり、タイの農民はなんて無知なのでしょう。コウイチには初めてのバンコックだったし、私もサパンクワイ周辺にしか土地勘がなかったのでリバティーホテルに落ち着きました。コウイチはこの日の夜便TG642で帰国します。私は一人でホテルに一泊しなければなりません。寂しいのでデンを連れ出すことにしました。しかし私は逃亡した身です。ホームに顔を出すわけにはいきません。コウイチにデンを連れ出すように頼んで、スティサン通りのガソリンスタンドで待っていました。コウイチはデンの肩を抱きかかえるようにして戻ってきました。「デンちゃんて可愛いね。ノイよりずっと可愛いじゃない。」ひっぱたいてやりました。 今考えればこの時、日本での遊びしか知らなかったコウイチにタイでの遊び方を教えてしまったようです。失敗した。

 タクシーを拾い3人でホテルに向かいました。左側に並ぶゴーゴーバーを指差してコウイチは、「ねえねえノイ、あの店なあに?ちょっとあやしい雰囲気だけど?」無視しました。ホテルに着きました。ロビーで以前に私をブッキングしたアラブ人に出会ってしまった。「君、ノイだよね?」と声をかけてきたので知らんふりして通り過ぎました。デンとは積もる話が山ほどありました。デンの話によるとスティサンのホームも大分さびれてきたとのことでした。私の逃亡以来、女の子の逃亡が相次いだこと。ボスが業を煮やして逃げる心配のない山岳民族やビルマ人を連れてきていること。S国大使館とタイ政府のトラブルでアラブの客が減ってしまったこと。エイズの噂が広まり仕事でコンドームを使うようになったこと等。コウイチが「帰る前に一発やらせてよ。なんなら3Pでもいいから。」またひっぱたきました。デンが私の話を聞き、日本へ行きたがりました。コウイチは「僕が身元保証して君が不法滞在したらノイの身元保証ができなくなるからダメ。」と断りました。とりあえず脳みそはあるんだ。

 こうして日本とタイを行き来しながらの2人の交際がはじまりました。92年の後半になるとタイ人の不法就労が日本で問題化しビザ取得が難しくなりました。「旅行ビザがダメなら学生ビザだ。」でも学生ビザは高校を出ていなければ取れません。「卒業証書?そんなもん偽造、偽造!」ということで92年暮れから私は、小学校出のタイの百姓は、日本語学校の学生になりました。日本語学校は8割以上出席しないと即ビザ停止になります。気軽にタイと日本を行き来出来なくなりました。どうせコウイチとは結婚できないのです、それならこれをチャンスに資格を取り企業に就職しようと頑張りました。私以外の学生は全部中国人でした。彼らは勉強が目的ではなく日本で仕事して金を稼ぐのが目的だったので、授業が始まるとすぐ居眠りを始めます。私と先生のマンツ-マンの授業です。「タイの人は真面目だね。」と先生から誉められました。

 コウイチは日本人の彼女と別れていました。「ノイのために彼女とは別れたよ。」と言っていたのですが、会社のスタッフに聞いてみたら、女遊びが過ぎたのと私のことがバレて彼女に見放されたそうです。ですから私はアパートを出てコウイチの家で二人で暮らしていました。タイで買ったピルがなくなってしまいました。コウイチが「僕、若い時に副睾丸炎を患ったことがあるから多分、種ナシ。大丈夫だよ。」と言うのでピルをやめてしまいました。そうしたら、、、できてしまったのです。

 産婦人科の帰り、私は決心していました。この子は絶対、スティサン時代に堕ろした子が帰ってきてくれたんだ。そして今の我が家の経済状態なら充分に子供を育てていける。父親も誰だかわかっている。学校をやめタイへ帰ってこの子を育てよう。しかしコウイチの口からは以外な言葉が返ってきました。「学生ビザで子供産んじゃまずいよ。結婚ビザに変えなくちゃ。」





第13章 時は流れて

 結婚と子供ができたことを家族に報告するため、コウイチと一緒に一旦チェンライに帰りました。1993年のことです。父は「やっぱり日本人は礼儀正しい。コウイチは我が家の仏様だ。」と言っていましたが、女ったらしですけべな仏様なんているのでしょうか?

 4女の様子が少しおかしくなっていました。理由は長女はタイの公務員と結婚し、2女はシンガポール人と、私は日本人と、そして5女は大学へ進学しています、自分だけが取り残された気がしたのでしょう。家族としては4女には村の真面目で働き者の男を婿にとってもらい家を継がせたかったのですが4女は首を縦に振りません。タイ人との結婚はぜったい嫌だと言います。4女の友達の何人かは結婚後、夫からエイズを感染させられていたのです。

 私は日本で出産することにしていたので出産前後には4女に日本に来ていて欲しかった。しかし大使館にどんなに理由を説明してもビザをくれません。2年前まであんなに簡単だったのに。コウイチは、「ノイの妹、どうせタイ人とは結婚する気ないんだろ?」と言って4女の承諾をとり、知り合いの日本人と結婚させてしまいました。コウイチはとにかくやることが極端です。「あいつはいいよな、処女の嫁サン貰えて。僕なんか使い古し。」ひっぱたいてやりました。とにかく妹の助けで日本で無事出産することができました。

 ナーが日本に来ました。タイで相談を受けた時、「大学まで出たあなたが何であんな仕事しなければならないの?」と思いとどまるよう説得したのですが、「あなたに負けたくない。」の一点張りでした。「ノイは自分だけ金持ちになって私を金持ちにさせたくないんでしょ。」 ナーは私と違い大学出でタイでの売春の経験もありません、そして家が金に困っているわけでもありませんでした。ただ「金を稼ぐんだ。」という強固な意志のもと、客の要求にもすべて応えていたので日本での評判もすこぶるよく、かなりの金を稼いでいたようです。

 1年経った頃、ナーは酔った客とスナックからホテルへ客の運転する車で向かう最中、泥酔した客が運転を誤りセンターラインをオーバーし、対向車と激突して死亡しました。私がそのことを知ったのはチェンライの私の家に見知らぬタイ人から電話が入ったからです。電話取次ぎ業というのはまず電話を受けると相手の名前を聞いて一旦切り、母が相手を呼びに行き、再び電話がかかるのを待つ、という仕事なのですが、この時は「ナーが死んだことを両親に伝えてくれ。」とだけ言って切れたそうです。「この場合、取次ぎ料もらうべきかしら?」などとばかなことを言ってる母を尻目にコウイチに頼んで事故のあった所轄を調べ、さっそく警察に向かいました。ナーがいたスナックはタイ人も台湾人ママも逃げてしまってみつからないそうです。しかたなく私が検死に立会いました。この後、保険金をめぐり大騒動になったことは皆様のご想像通りです。コウイチもこの時はタイ人に対しかなりの不信感をもったようです。

 数年は平穏な日々が続きました。コウイチと女のことで喧嘩になることはしょっちゅうでしたが。たまに私がタイ人の集まる場所にいくと、タイ人は何故こうなのでしょうか、私に「あんたの旦那○○っていうタイスナックに通ってるわよ。」とか「○○っていう子を買ったみたいよ。」とかあることないこと告げ口するのです。「あんたの旦那と寝た。」と言い出す女も現れる始末です。とにかくコウイチは結婚後もタイ人との遊びをやめませんでした。不思議と日本人のいる店には一切近づきません。一度そのことをコウイチに問い正したことがあります。「おしり。おしりだよ。タイ人のヒップアップしたきれいなおしり見たあとさ、日本人のあのドテーっとしたやつ見ても立たなくなっちゃったんだよ。でっ、でもノイと結婚してからは一切やってないよ。ほんと。」いつかちょんぎってやる。

 電話が入ったことで,一時音信が途切れていた2女とも連絡をとりあうようになったし、貧乏から逃げていた長女も家族を連れてしょっちゅう顔を出すようになりました。4女はコウイチとは正反対の真面目な日本人と結婚したので幸せに暮らしています。日本の町工場で働き、給料をせっせと盤谷(バンコク)銀行へ貯めこんでいます。5女の学生生活も順調です。父も小作人を率いて真面目に農業に取り組んでいます。こうして一度は切れかけていた家族の絆もだんだんと強固なものになっていきました。

 いよいよ待ちに待った5女の大学の卒業式です。私は初めて、コウイチの両親にわがままを言って子供を預かってもらい、タイへ渡りました。2女もシンガポールからやってきました。卒業式、5女が卒業証書を受け取った途端、私達姉妹は抱き合って泣いていました。この瞬間こそ、2女が、私が、体を売ってまで待ち望んでいた瞬間です。この後、5女はシンガポールへ語学留学し、バンコックの外資系企業に就職しました。私は妹に「今まであなたにかかった学業費用を返し終わるまでは結婚するな。」と言って聞かせました。

 ジアップの家は相変わらずでした。父親は博打に明け暮れ、ジンは妾と娼婦の繰り返し、ジアップはタイ人と結婚しながらもバンコックで売春を続け、2人で家へ送金を続けていました。家族はすでに働く意志はなく、田んぼも小作人にまかせて、娘の送金だけで生活しています。そしてジアップの夫がエイズを発病しました。ジアップもあわてて検査にいったのですが、やはりキャリアになっていました。それでも売春をやめません。家に送金しなければならないからです。(皆様、気をつけて下さいよ。)数年後、ジアップは発病し家に戻っていました。家族で里帰りしていた私は嫌がるコウイチを連れて見舞いに行きました。彼女のありのままをコウイチに見せて、何とか女遊びをやめさせたかったからです。ジアップはやせ細り、肌の色は土色で体中に発疹が出ていました。彼女は「チョット待って。」と言い、柱に頭をガンガンとぶつけ始めます。「ごめん、時々頭が切り刻まれるような痛みが走るの、そういう時こうすると麻痺して痛みを感じなくなるの。」私は言葉も出ませんでした、1歩間違えれば私もこうなっていたかも知れないのです。「ねえ、ノイ。私達同じ年にこの村で生まれたのよね。同じ小学校へ行って、ハジャイに行ったのも同じ、バンコックも同じ。でも今、何でこんなに違うの?結婚?ノイならわかるでしょ、私達娼婦って何処へ行っても犬扱いよね。私だって男なんて女の体を弄ぶだけの生き物だと思ってた。でも夫は違った。私のこと人間の女として扱ってくれた。夫の家も貧乏でね、パタヤで男に体を売ってたの、私と同じ13歳から。でもカトゥーイ(おかま)にはなりきれなかったみたいで。似たもの夫婦よね。」

 私はコウイチに感想を尋ねました。「やっぱり欧米人に比べると食料事情の関係かな、感染から発病までの期間が短いね。」「そんなこと聞いてるんじゃないでしょ!」「いっ、いや、コンドームを使えば、いや、僕は今はやってないってば。」娘がこんな状態になっても博打をやめないジアップの父親と、こういう現実を見せつけても女遊びをやめないコウイチと、どちらが本当のバカなのでしょうか?

 姉のジンが話しかけてきました。「ジアップが死んだらどうなるかわかる?私が今以上に送金しなければならなくなる。ただそれだけ。私気がついたんだけどさ、この村からもずいぶんと娼婦出してるでしょ。でも裕福になった家ってある?ないでしょ、みんな父親がうちみたいに博打に走ったり、女につぎ込んだり、酒浸りになって仕事やめちゃったり、私わかったの。タイの百姓は裕福になろうと思っちゃいけないの。無理してなろうとするからナーや妹みたいに死ななければならないのよ。」私は、「私のうち見てよ、裕福になったし幸せになった。パヤオだって綺麗な家がたくさんある。あれみんな娘たちの送金で建てたんでしょ。」と反論しました。でも確かにこの村で綺麗な家を建てたのはジンと私だけです。「パヤオは別、あそこの人間はみんな見栄っ張りだから、近所が競い合って借金して無理して建ててるの。家の中見てみなさいよ。家具もなんにもないから。それとあなたの家も別、姉妹3人で外国人専門の売春婦やってんだから。お金も貯まるわよ。」「2女と私は確かに体売ったわ、でも4女はちゃんとお見合いして結婚したのよ。」「タイの百姓の娘が先進国の男と結婚なんて不自然でしょ。あなた達のやっていることは相手を一人に絞って体売ってるってことじゃない。あなた達の子供はタイ人?日本人?シンガポール人?」「違うわよ。私達、夫にお金をせびったりしない。日本人はスケベだけど頭いいのよ。私の家族はコウイチを信じて彼の言う通りにやってきただけ。」「そのコウイチが私に色目使うんだけど。どうする?」あのバカ!「あなたの家は5女以外は美人揃いだしね。でもあなたの家だってこのままのわけないわよ。だってそれじゃ不公平だもの。」

 私の家が不幸になる?そんなこと考えられません。もしあるとしたらコウイチがどっかでエイズ貰ってきて私が感染する?もしそうなったら私は自殺します。ジアップみたいになるのは嫌です。

 作者注:「パヤオ」 チェンライ南隣の県、昔はチェンライ県の一部だった。昔から娼婦の供給地として有名。「チェンマイ美人」という言葉は実は「パヤオ美人」であるという説もある。ただここの住民気質は日本でいえば名古屋と同じ。 





最終章 メーコックの夕暮れ

 私も30歳になりました。思えば夢のような十数年でした。スティサン時代の友達とは音信不通です。デンは風の便りに大金持ちの華僑の妾になったと聞いています。フランソワーズの友達は9人のうち6人までが日本人と結婚しました。残りの2人はレズビアンだったので数年後タイへ帰り、その日本語能力を生かしてタニヤで働きながら「夫婦生活」をしています。(皆様、「おかまに注意」は当然ですが「レズに注意」も覚えておいて下さいね。タイには以外と多いです。)結婚した6人のうち3人は離婚し今でも日本で娼婦として働いています。私ともう一人が専業主婦、残った一人がエーンです。彼女は夫に「主夫」をさせながらタイスナックを経営しています。離婚したうちの何人かはそこで働いています。

 コウイチとめぐりあって以来、私の家もずいぶんと裕福になりました。コウイチ曰く、「簡単なこと。僕が初めてこの村に来た時、ここはまるで戦争直後の日本だった。それならどんな商売をやった日本人がその後金持ちになったかを考えて同じことをやれば同じ結果になったでしょ。」至極当然。「田んぼにしたって僕が道路に面した田んぼだけ買えって言ったでしょ。タイだって既に農民の農業離れと高齢化が始まってるでしょ。日本と同じだよ。そうするとタイの農業も今までみたいに水牛じゃなくて機械に頼らざるを得なくなる。そうすると道路に面してない田んぼの地主はノイの家にそれこそ二束三文で田んぼを売らざるを得なくなるでしょ。」「それってずるいんじゃない?」「冗談じゃない、これは地上げっていって日本でも認められたりっぱな経済行為なの。ノイみたいにオ○ンコで金稼ごうなんて考えちゃだめ。」こういう日本人が今でもタイ人から搾取を続けているんでしょうね。

 私の夢もほとんど現実のものとなりました。王子様がすけべじじいだったことを除けば。私の最後の夢、それは2階建ての家を建てることです。ノンブア村にまだ2階建ての家はありません。「コウイチが友達を連れてきた時も泊まれるように。」とか「5女はいずれバンコックの高学歴の男と結婚するだろうから、向こうの家族が来ても気後れしないように。」とか色々な理由をつけて2女と4女を説得しました。この2人はそれぞれの国で働いていたのでお金は持っていました。私は専業主婦だったのですがへそくりをしたり、寝静まったコウイチの財布から「どうせスナックの女に消える金だ。」と自分に言い聞かせて、抜き取って貯めたお金が50万バーツありました。3人で50万バーツづつ出し合い、150万バーツの家を建てました。近所の人からは「ノンブア御殿」と呼ばれるようになりました。

 ここに1枚の写真があります。家が完成した時、日本からシンガポールから全部の家族が集まって両親を真ん中にして撮った記念写真です。但し5女だけは会社の休みがどうしても貰えず、一緒に写ることが出来ませんでした。コウイチは「卒業式に欠席した奴みたいに後で付け足せばいいよ。」と言ったのですが、その必要はなくなりました。5女が自殺してしまったのです。

 まさにこの「ノンブア御殿」が原因でした。新しい家は5女にとっても本当にうれしかったのでしょう。家の写真を会社で見せびらかしたのです。いつしか「5女の家は大金持ちだ。」とか「姉妹の3人が外国人と結婚して、毎月すごい金を貰っている。」とかいう噂が会社の内外で立ったのです。タイの男はこういうことを見逃しません。妹は狙われたのです。だんだん仲良くなりいつしか同棲するようになり、この男の家族も極貧だったので妹は自分の給料からお金を援助したり、この男に携帯電話まで買い与えていました。本当にタイの男は女に取り入るのがうまいんです。プーヶットでサーファーのかっこしたタイの男に日本の女がいいようにあしらわれていたり、バンコックのMPの女がホストに金を貢がせられていたり、皆様は御存知ですよね。

 皆様はタイにこれだけの娼婦があふれているので、「タイの女は貞操観念がない。」とお考えでしょうか?実際は全く逆です。特に農村部では処女でなければ結婚出来ない、というのが未だにあたりまえの観念です。母の時代には、最初に手を握られた男と結婚しなければなりませんでした。今でもむやみに女の体に触れた男を警察に訴えることができます。私がコウイチを最初に村に連れてきた時、よく言い聞かせたのもこのことでした。皆様も田舎に行った時は気をつけて下さい。

 最初に5女から「男友達ができた。」と聞いた時はたいして気にも留めず、「よく考えなさい。」とだけ言っておいたのですが、そのうち「結婚したい。」と言い始めました。5女にとって勿論初めての「男」です。「そんな小学校出のろくに仕事もしないような男と結婚させるためにね、私が体まで売ってね、辛い思いしてね、みんなから犬呼ばわりされてね、あなたを大学まで出したんじゃない。」最後は私も泣き叫んでいました。「結婚したいならしなさいよ。でもね、もうあなたは私の妹じゃない。出て行け。」これが妹と交わした最後の会話でした。

 その日のうちに妹は私から聞き覚えていたアップジョンを30錠飲み干し、会社のトイレで首を吊りました。ねえ、皆様、コレ出来過ぎた作り話だと思うでしょ。でも本当なのです。思い出すだけでも辛いんです。新聞にまで出てしまい、週刊誌に至っては、「娘の純愛を認めなかったバカな成金一家」と書きたてました。でもこの男と電話で話した時、この男は、「僕と彼女は結婚の約束までしていたのだから、これからも親戚づきあいしてほしい。(つまり金をよこせってことだろ)あと彼女の形見として彼女のオートバイが欲しい。」皆様、私が悪かったのでしょうか?

 悲しみに暮れる私にコウイチは言いました。「ねえ、ノイ。僕が何故君と結婚したかわかる?勿論、最初は遊びのつもりだったさ。でもね、男にとって何が怖いって、女に純情をぶつけられるほど怖いものはないんだよ。君は僕が身請けしてから僕にずっと純情をぶつけてきてたでしょ。それで僕、逃げられなくなっちゃったんだ。君も君の家族も本当にストレートで単純なんだよね。だからみんなして妹を追い込んじゃったじゃない。こういう時は誰かが妹の味方についてやって、少しづつ説得していって別れさすなり何なりするっていうのが日本のやり方なんだけど、タイ人にこれを言っても無理か?」全ての言葉が空しく聞こえます。

 日本から、シンガポールから、チェンライに駆けつけ妹の葬式をとり行いました。タイの葬式は3日から1週間かかるのです。この間、何をやっていたのかよく覚えていません。アップジョンを飲んじゃったのです。葬式も終わり、参列客も帰っていきました。泣き崩れる家族をよそに、私はフラフラと村の裏山へ向かいました。あのメーコックの見える丘をめざして。

 メーコック川は夕日で真っ赤に染まっていました。ぼんやり見つめていると今までの人生がフラッシュバックしていきます。小学校の頃、山菜を採りながら涙したのもこの場所です。娼婦になる決心をしたのも、日本行きを決意したのもこの場所でした。妹も死にました。ナーもジアップも死にました。私は今まで一体何をやってきたのでしょうか?ただ貧乏から逃れたくて自分なりに一生懸命やってきたつもりです。でも少なくともナーと妹の死に私が関係なかったとは言えません。確かに家は裕福になりました。でも家族はタイとシンガポールと日本に離れ離れ。幸せにしたいと思っていた両親にも最後にとんでもない不幸を背負わせてしまいました。年老いた父は最近、私達に戻って欲しいと言います。もしかしていくら貧乏でも家族が一緒に住んで、こうして毎日メーコック川に沈む夕日をみつめている方が私にとって幸せだったのかもしれません。ジンの言うとおり百姓は裕福になろうとしてはいけないのかも知れません。でも、でも、昨日は二度と戻っては来ない。 (完)





ノイの最後の挨拶

 外道平民の皆様、私の話にながくつきあっていただき誠にありがとうございました。また励ましのお便りを下さったたくさんの皆様、感謝します。又、サイトの趣旨からは相当ズレているにもかかわらず掲載していただきいろいろなアドバイスを下さった外道 紘さん。ありがとうございました。
 何故タイにこれほど多くの娼婦がいるのか?それはタイ政府の農業政策にあります。灌漑設備もない農業保護政策もない。百姓はいくら頑張っても絶対裕福になれない仕組みが出来あがってしまっているのです。しかしタイ人の半分以上は農民です。この農民たちから政府、華僑、日本企業などがよってたかって搾取しているのが現状です。裕福になろうと思ったら、女は体を売る、男はおかまになるかムエタイのチャンピョンになるか、それしかないのです。

 それから「バンちゃん物語」は是非読んでみて下さい。特に最後の「neguro氏からの助言」はまさにその通りです。
 また、メーコックを読んでスティサンへ行った読者がいると外道さんから聞いたのですが、ここに描かれているのは1988年のスティサンです。現在は見る影もありません。
 日本で「農協」という組合のことを知りました。団結心のないタイ人には非常に難しいかも知れませんが、タイにも農協ができれば農民も裕福になり女も体を売る必要がなくなると思います。
  
「バシッ!」

今のは「そんな事になったらバンコックがつまらなくなる。」とほざいたコウイチをひっぱたいてやった音です。

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