ガラウェイの香り
BY:ユニコーン
  1. 第1章 出会い
  2. 第2章 夜の花
  3. 第3章 二人きりの部屋
  4. 第4章 恋の行方
外道の細道
第1章 出会い
ソンクラーン明けの一番暑い盛りに、関連会社の駐在員ノムさんから誘いが来た。
「今度の金曜、飲みに行こうぜ、いいカラオケ見つけたんだ」。月に2,3度の恒例のお誘いである。
仕事も溜まっていたし、あまり気も進まなかったが、たまには気分転換になってくれるかと思い誘いを受けることにした。
本当はあまりカラオケが好きではなかった。理由は簡単である。今まであまり可愛い子に出会ったことがないからである。
もちろん一緒にいて楽しい娘もいる、とてもセクシーな娘もいる、連れ出してホテルに行って濃厚なサービスを受けたことも、あるにはある。
しかし、「また会いたい」と思うような娘はほとんど皆無であった。ホテルに行って金を渡した瞬間に相手の女性が悲しく見えてしまい、自分が卑しい人間に思える。
金でセックスを買うことが悪いとは思わない。需要と供給がある以上この種の商売はなくなることはないであろうし、あれだけの快感を与えてくれる以上はその対価を払うことは当然であるが、どうしても空しさが消えない。

MPの方がその点はあっさりしていて心地よいような気がする。金を払って個室に入る、当然のことのように双方が裸になって、当然のことのようにセックスする。終わればさっさと服を着て帰る。
翌日には自分の体にあれほど情熱的に舌を這わせた女性の名前すら覚えていない。
こちらの方がよほど楽しいのである。完全なる「セックス産業」であり、気持ちが入る余地がない。個室での行為はベルトコンベアを使った作業であり、作業員はもちろんプロフェッショナルである。
カラオケの場合、最低でも1時間や2時間はおしゃべりに費やし、その後オフすることになるが、それまでに相手のことを観察する時間が十分にある。それは情が移る時間が十分あることに他ならない。店を出る頃にはある程度情が移っていて、相手もまるで恋人のように腕にしなだれかかってタクシーを拾うことになる。
僕を含めて男はけっこう単純なので、その恋人気分を楽しんでしまう。そしてその雰囲気を持続したままホテルでセックスし、別れ際に金を渡すことになる。
それでなくてもセックスした後は、それまでの気持ちの高揚からの落差でよけい気持ちが冷めているところに持ってきて財布を探って金を渡すのはしらける。ましてやそこで値段の交渉などしようものなら冷めるを通り越して気持ちが凍りつくほどに悲しくなる。
恋をするのか金で女を買うのか、どうにも曖昧なところにカラオケクラブというものは位置づけられているように思えて仕方がない。
「疑似恋愛」というのだろうか、もちろんこれがカラオケクラブのコンセプトであろうし、ママさんやチーママは、上手な疑似恋愛に持ち込む手管を女の子達に教え込こんでいるに違いない。
そして「幸せな勘違い」をした男達が店に通い、女の子を連れだし、買春と恋愛の狭間で湯水のように金をつぎ込むという構図ができあがってくる。

4歳年上のノムさんはそんな僕に「気に入った娘が出来るとカラオケ遊びもグッと楽しくなるよ」と言っていた。ノムさんはカラオケが大好きだと言っていた。何軒もの店の常連であり、店ごとに「お気に入り」がいるそうである。
この日連れて行ってもらった店はスクンビットのあまり賑やかでない通りにポツンとある小さなカラオケ店「R」であった。
店構えを見た途端「あまり期待は出来ないな」というのが正直な感想であった。
午後7時という早い時間であったためか、客は誰もいないようで、ドアを開けても「イラッサイマセー」の大合唱はない。
そのかわり、客席で仕事前のメイクに夢中だった女の子がはじけるように立ち上がってはにかんだ笑顔を見せた。
これが僕と彼女の出会いだった。
化粧の途中経過を見られた彼女は恥ずかしそうに背を向けると、カウンター脇のドアに小走りで消えていった。
入れ替わりに出て来たチーママに案内されてボックス席に着く。ノムさんは何度か来ているらしく、この素晴らしくセクシーなチーママとさっそく冗談を交わしている。
定石通りチーママに名前や会社を聞かれているうちに、ボトルやフルーツが運ばれてきた。
ノムさんは「ここは客も少ないけど女の子がそれ以上に少ないから早い時間に来ないとダメなんだ。」と笑っていた。
確かに店の隅に控えている女の子の数はわずかに8人くらいである。これでは店が混んできたらとても女の子が間に合わない。一体どういう経営方針なのかと疑いたくなった。
しかし、とりあえず客は我々だけだったので、さっき化粧の途中で消えた彼女を指名できることは間違いない、と思い一安心した。
チーママが声をかけると待機していた女の子が立ち上がり、我々のボックス席前に整列した。
彼女はいた。今度はちょっと不安そうな顔をして立っている。
ノムさんに「どうぞ」と言われ、一瞬不安がよぎった。まさかノムさんのお気に入りとは彼女のことではなかろうか。
「左から2番女の子ってノムさんのお気に入りですか?」思ったままを小声で口にした。
「違う違う、俺はこの子」といってノムさんは一番近くにいた胸の大きい娘の手を引いた。
ホッとした僕はずっと見つめっぱなしだった彼女を指名して、脇に座らせた。

彼女の名はニュウ、23歳、身長は164センチくらいで色白、僕のストライクゾーンど真ん中であった。それも160キロの剛速球のストレートを投げ込まれたような気がした。決して美形ではないが、はにかんだような目の表情が何とも可愛い。
ニュウは「R」で働き初めて3か月、以前はジュエリーショップで働いていたが収入が悪すぎて止めたそうだ。
じゃあカラオケでは良い収入があるのかというと、そうでもないらしい。
1日休めば1000バーツのペナルティ、月3回同伴のノルマ、休みがちで同伴してくれる馴染み客のいないニュウはこれらのペナルティで固定給のほとんどが削られてしまい、残るのは客の席についている間のドリンク代だけだそうである。
ジュエリーショップのころとあまり変わらない収入らしいが、それでも同性の友達の沢山いるこの店はけっこう楽しいらしい。
僕の目には日本人にウケそうな顔をしているのだが、彼女は「自分はきれいじゃないからあまりお客さんが指名してくれない。」と言っていた。
そんなはずはない、と何度も言っても唇をとがらせて「そんなお世辞は聞きたくない」という顔をする。
「カラオケには沢山行ったけど、君みたいに可愛い女性に出会ったことがない」
僕のつたないタイ語は何とか通じたようで、「お世辞が上手ね」というようなことを言われたが、僕は全くの本心を口にしていた。
僕のタイ語はとても女性を口説けるほどのレベルではない。今までカラオケであまり楽しい思いをしたことがないのはタイ語があまり上手でないことも関係しているかも知れない。
ニュウも日本語は全く話せず、また元々あまり話好きではないらしく、ノムさんが歌っている間、二人の会話はとぎれがちだった。
思い出したようにニュウは「ごめんなさいね、私あまり話すのが上手じゃなくて。退屈でしょ?」と僕の顔をのぞき込む。
話すのが苦手なのはすでに分かっていた。客に媚びることも苦手なのだろう。
しかし僕が自分でタバコに火を付けようとすると素早くライターを奪い取り、「ボリガーン、ボリガーン」と呟きながら火を付けてくれたとき、彼女がカウンターのチーママに一瞬目を向けたのを僕は見逃さなかった。
接客態度をチーママが厳しくチェックしていると言うことなのだろう。減ってもいないソーダ割りのグラスにウイスキーを一滴垂らしてマドラーでかき回したり、僕の手を取って手のひらにタイ語の文字を書いたりして間を持たせているのがよく分かる。
「僕もタイ語があまり上手に話せないから、気にする必要はない。君といるだけで僕は楽しいよ」日本語だと歯の浮く台詞になるが、覚えたてのタイ語だと全く気にならないから不思議だ。

ニュウは終始ちょっと困ったような、はにかんだ表情を浮かべていたが、ボトルがほとんどなくなり僕とノムさんが帰る相談をし始めたのを雰囲気で察したらしく、バッグから名刺を出すとそれにあわただしく電話番号を書き込んで僕の手に握らせた。
「仕事場から昼間電話する。君も電話してくれないか。時間があったらメシでも食いに行こう。」と言って僕は彼女の携帯にコールして自分の番号を表示させる。
ニュウは僕の名前をメモリーして「いつ電話したらいいの、奥さんバンコクにいるんでしょ?」と心配そうな顔をする。
「夕方までだったら大丈夫、それにワンコールで切ってくれれば僕がコールバックするから。」というと安心したような顔をしていた。
チップを渡そうとすると「いらない、また来てくれればいい」と押し返されたが、強引に握らせて店をあとにした。
普段なら飲み、歌い、騒ぎ、時間の限り女の子の体を触りまくってひんしゅくを買う僕が、結局手を握っただけで他には一切触れていないことに気が付いた。
「今日は行儀良かったねぇ、惚れちゃったかな?」ニヤニヤするノムさんはとても満足そうであった。
「また来ましょうね。」と僕。

店を出たあとノムさんが話してくれたところによると、この店にもペイバーのシステムはあるらしく、自分の席に座らせているときに支払う女の子のドリンク代を閉店までの残り時間分支払えば店から連れ出すことは可能だと言うことであった。
帰る道すがら僕は、ニュウがペイバーされて誰かと一緒にホテルに行っている可能性を考えた。
同然あるだろう、いくら純情そうなことを言っていてもバンコクの水商売で働く女性がセックスを商品にしないことはとても難しいことのように思う。
もちろん連れ出しのできない店もあるし、連れ出しの出来ない娘もいる。
しかしここバンコクでは、カラオケで働く女性の8割くらいは売春婦と言えるわけで、いくら自分の気に入った娘であろうとも「あの娘にかぎって」などと考えるのは愚の骨頂であろう。
電話番号を教えてくれたのも、他の客にするのと同じ社交辞令だろうし、チップを断ったのもそう言う店の教育なのかも知れない。
だから自分が気に入ったからと言って、よけいな期待をするのは子供じみている。
結局ニュウも他のカラオケの女達と何ら変わりはないのだと自分に言い聞かせることにした。
しかし、カラオケから帰ってきて「またあの娘に会いたい」と思ったのはとにかくこれが初めてだった。
また一人バカな日本人がカラオケ店の策略に引っかかり疑似恋愛の罠に落ちていったらしい。





第2章 夜の花
ニュウと出会ってからというもの、僕はぱったりと他の遊びを止めてしまった。
特に意識したわけでもないし、ましてや他で遊ぶことを後ろめたく思ったわけではない。ただ好きでもない女と遊ぶために金を使うのがばからしくなったとでも言えるだろうか。もちろん仕事上の接待や友達に誘われれば別のカラオケに行くこともしばしばあったし、その店にはその店なりの可愛い娘もいた。しかしやっぱり楽しくない。いくら日本語の上手な娘と会話が弾んでも、オッパイの大きいセクシーな娘の体を触りまくっても、店を出た瞬間に顔も覚えていない。
「ホテルに連れてって」とせがまれても、「また今度ね。」とあしらいながら、ニュウのことを考えている。
たまにカラオケに一人で来ている日本人を見かけると、「淋しいんだなぁ、ああやって女の子と一緒にいる時間を金で買うことしかできないなんて悲しいな。」と多分に見下すようなことを考えていた。
しかし今はどうだろう、大勢で酒を飲んでバカ騒ぎをしたあとだというのに、そして時間は午後11時になろうとしているのに、「彼女はまだ店にいるだろうか?」と考えている。いや、考えているのではなく、会いに行こうとしている。
ニュウはいた。驚いたような顔で僕を迎えてくれた。そして「どうして一人なの?」怪訝そうに聞いた。
「君に会いに来た」僕は本当のことをストレートに言った。
「会いたい、と思ってくれたの?」
「会いたかった、でも忙しくて来れなかった。」嘘だった。来ようと思えばいつでも来れた。
ニュウはそれまでのはにかんだような笑いではなくて、心の底からにっこりと微笑んでくれたが、結局「うれしい」とは言ってくれなかった。普通の娘であれば「ディーチャイ・ナー」とか言って腕にしがみつくところであろうが、彼女はそういうことはしなかった。
そこがまた僕の心をかき立てるところでもある。
酒もほとんど飲まなかった。ましてやカラオケなんて歌う気にはなれない。でも一応そう言う店なのだから彼女は「歌わないの?」と本を開く。
「酒を飲むために来たわけじゃない、歌を歌うために来たわけじゃない、今日はニュウに会いに来たんだ、ただそれだけだ。」
はにかんだような微笑み、この顔が僕は大好きだ。
ただ体を寄せ合ってときおり顔をのぞき込む。そのたびに口をとがらせて変な顔を作り、笑う。
そんなことをくり返しながらニュウはぽつりぽつりと身の上を語ってくれた。
ニュウの両親は彼女が子供の頃に離婚して、父親は現在どこにいるか分からないらしい。母親はチェンマイに自分の姉夫婦と一緒に住んでいるが、ニュウを生んでから体を悪くして病院通いをしている。
バンコクでのニュウは母親の弟にあたる叔父夫婦の家に居候しているという。
この叔母という人が口うるさい人で、夜の仕事などもってのほかという意見らしく、ニュウはナイトバザールで洋服を売っていると嘘をついて今の仕事をしていると言うことであった。
おまけに家事を手伝わされるため、深夜に帰っても朝は毎日7時には起きなければならないことも多く、とても疲れると言っていた。
よくある「お涙頂戴話」にも聞こえるが、彼女の言っていることは多分本当であろうと思った。
かつて友人が親密になったバーの女の子に「母が入院するのでお金が必要だ」と泣きつかれて数万バーツだまし取られたと言う話も聞いたことがあり、飲み屋の女の子が「親が病気で・・」と話したときは相手の男から金を引っ張る魂胆だ、というのは我々駐在員の間ではほとんど常識と言っていいくらいである。
しかし僕は彼女を信じた。もし金を引っ張る気であればそれでも良いだろう、とさえ思っていた。

「R」は他の店に比べて勘定が高かった。ニュウ以外の女の子を見渡した限り他の店より高い理由は見あたらない。またしても店の経営方針を疑ってしまう。
いくら駐在員とはいえ大した給料をもらっているわけではないため、そう頻繁に店に行くわけには行かない。
僕はニュウと店の外で会うことを考えた。
彼女は意外にあっさりOKしてくれたが、店を休めるのは月に2日しかないため、まず昼間だけ会うことにした。
バンコクはいい街だが、いざ女の子とデートしようと思うと意外に行くところがない。
仕方なしにワットポーに行くと、ニュウは線香を持って一生懸命寝釈迦仏に祈っていた。店にいるときとは違い、着ているものはGパンにTシャツ、そして化粧をほとんどしていないニュウは18歳くらいに見えたが、タイ人にしては透明感のある肌とTシャツの胸を持ち上げている意外に大きなふくらみに僕はドキドキしっぱなしだった。
川を船で下り、デパートをぶらついたあと二人でプリクラを撮った。
「化粧をしない方がずっと可愛い」
「化粧をしたら可愛くないの」
「店にいるときもきれいだけど、僕は今のニュウの方が好きだ」
「子供っぽいでしょ?良く言われるの」
「いいじゃないか、可愛いんだから」
照れたのかニュウはいつものように唇をとがらせて変な顔をする。そしてその後弾かれたように見せる笑顔で僕は完全に彼女の虜になっていた。
ああ、もうどうにでもしてくれぇ・・と心の中で叫びながら僕は彼女と手をつないで歩いた。
日が陰り、風が涼しくなった頃、僕たちはサヤームスクエアのベンチに腰を下ろしてアイスコーヒーを飲んでいた。
二人のために日陰を作ってくれている木の枝には小さな白い花のつぼみが見えた。
「あの花知ってる?」ニュウは僕の肩越しに斜め後ろを振り返って囁いた。
「しらない」
「ガラウェイっていうの、英語の名前は知らないけど。夜の間だけとてもいい匂いをさせて咲く花なんだけど、朝になると終わってしまうの。」
「・・・」
「あたしと同じでしょ、夜だけいい匂いがしてきれいな服着て・・」
「夜だけじゃない、今だってきれいだ、僕は今のニュウの方が好きだ、すごく愛してる」
賑やかなサヤームの喧噪が二人の耳から消えた。
「・・愛してるなんて言っちゃだめよ。あたし達はまだ3回しか会ってないのよ。」ニュウはなぜかムキになっていた。
怒ったような悲しいような顔をして「仕事に行く時間だから」とそのまま小走り立ち去ってしまった。
僕はなぜ彼女があんなにムキになったのか分からないまま、ぬるくなったアイスコーヒーのカップを持ったまま呆然と立ちつくしていた。

すっきりしない気持ちのまま仕事の忙しい日が3日続いた後の木曜日、僕はノムさんを誘ってみた。
ノムさんは二つ返事でOKしてくれ、以前と同じように開店時間に会わせて午後7時に「R」に行った。
ニュウは、ちょっと照れくさそうに僕の隣に座り、まるで言いたくてたまらなかったとでもいうように「この前はごめんなさい、怒ったわけじゃないんだけど・・・」と切り出した。
「気にしなくていい、でもどうして「愛してる」って言っちゃいけないんだ?」
「あたしもあなたのことは好きだけど、まだ愛してるとは言えない。以前恋人がいたんだけど別れてしまって、すごく泣いたから。愛し合うことが不安なの」
ニュウのタイ語を100%理解できないことがこんなに悔しく思えたことはなかった。
いっそ強引にでもホテルに連れ込んでしまえばその方がいいのかも知れないと僕は思ったが、このままプラトニックでもいいような気がしてしまい、自分の気持ちに整理が付かなかった。
午後9時を回ったところでノムさんが「俺この子と一緒に出るけど、どうする?」と耳打ちしてきた。
「出るって、どこに行くんですか?」
「ホテルに決まってんだろ。一緒に出ようぜ、その子連れてさ」
僕の返事を聞かないうちにノムさんはチーママを呼ぶと「二人オフね」と告げた。
チーママはノムさんの隣にいる娘とニュウの二人に早口のタイ語でなにか告げるた。ニュウはなにか言いたそうな顔をしていたが、すぐに不安そうな目を僕に向けて「どこに行くの?」と聞いた。
「ご飯でも食べよう」
「分かった、着替えてくる」目が笑わない、僕のことを疑ってるのか。

タクシーに乗る寸前にノムさんの彼女がニュウに向かってタイ語でなにか言った。
ニュウは突然声を荒げてその彼女になにか言い返したが、僕にはその意味が分からなかった。
二人きりになった僕たちはぎこちなく歩道を歩き始めた。
「何を食べようか。お腹空いてるでしょ?」
「何でもいい、その辺でバミーでも食べるって言うのはどう?」
「OK、決まりだ、でもクイティアォの方がいいな」
二人は屋台の集まった駐車場に入りクイティアォを食べながら向かい合った。
「さっき彼女はニュウになんて言ったの?」
「説明できない」
「どうして」
「あまりいいことじゃない、エッチなことを言ったから」
「ぼくとニュウがホテルに行くと思ったってこと?」
「・・・」
「ニュウはお客さんにオフされたらホテルに行くのか?」
「行かない、行ったことない。オフは断ってる。チーママは私次第だって言ってくれてたから、「オフしたい」って言われたらどこに行くのか聞いてから出るの。だからこうやってご飯食べたりしたことはあるけど、お客さんがエッチなことを考えてるときは断るの。私のこと信じる?」
「信じるよ」僕は冷めかけたセンミーナームをかき込んだ。

BTSの駅に歩く途中、ニュウはため息混じりに叔父叔母と一緒に暮らすのは疲れると話しはじめた。
家事をしないと怒られる、仕事以外で出歩くと怒られる。仕事で帰りが遅くなっても怒られる。電話にも出たくないと言っていた。
「アパートに独りで住みたいんだけど、今の給料じゃ無理だし・・」
僕は「来た」と思った。ニュウはアパートを借りる金を僕に出させる気だと。そうしなければ金を稼ぐため他の誰かとホテルに行ってしまうよ、と言う謎かけだと思った。
「いくらかかるんだい、アパート。」
「7000バーツくらいのアパートならあると思うんだけど。」
僕がその金を出すと言ったらニュウはなんと言うだろうか、その対価として僕に身を任せるつもりなんだろうか。僕の頭の中ではいろんなことがぐるぐる回っていた。
しかしそれはいくらかの金を握らせてホテルに女の子を連れ込むのと何ら変わりはない。
もう一人の僕が囁いた「彼女と寝たいんだろ、月3万円も使わないで好きな娘を独り占めできるんなら安いもんじゃないか。」
金で彼女を抱くためにはすでに僕は彼女を愛しすぎていた。
いくらかでも金銭的な援助をすることは、彼女との関係を自分で進展させないことになると頭では分かっていたが、僕の口からは思わぬ言葉が出た。
「アパートの金は僕が出すよ。」何を言ってるんだ。
「それはダメ 。」彼女はきっぱり言った。
「君の援助をしたいんだ。君は僕のために何もする必要はない。わかるかい?」
「お金をもらって何もしないというわけには行かないでしょ。あたしはお金をもらってもホテルになんか行かない。」ニュウの声は怒りに満ちていた。
「違うんだ、僕が言っているのは・・」タイ語では気持ちをうまく伝えられないもどかしさで僕は自分をひっぱたきたい気持ちだった。
「僕は金で愛を買えないことは分かってる。」
「・・・。」
「たとえ君がアパートに住んでも僕はそこに行かない。アパートがどこにあるかも教える必要はない。」
「・・・。」
「ニュウがアパートに住んで、サバーイになれるなら、僕もうれしいんだ、サバーイなんだ。」
「・・・。」
「そして自由な時間が出来たら一緒にご飯を食べて話をしよう。僕はそれで楽しいんだ。」「本当?」ニュウの瞳から怒りの色が消えた。
「僕を信じる?」
「今は分からない。お店の友達もお客さんから援助を受けている人がいるけど、それって愛人だもの。」
「ニュウは僕の愛人なんかじゃない。ニュウが僕を愛してくれればもちろん僕はうれしいよ、でも、片思いでもかまわないんだ。」
「片思いなんて言わないで。あたしだってあなたのこととても好きよ。」
「だったらいいじゃないか、ニュウの快適さと自由な時間のために僕はお金を出す、ニュウは僕のために何もする必要はない。これでいいだろ?」
僕は多少意地になっていたかも知れない。本心ではニュウのことを金で身を任せる女かも知れないと思いながら、だったらなおさらのことセックスなんかするものか、と。

翌週ニュウはスクンビットのあるアパートに引っ越した。もちろんアパートの名も住所も教えてもらってはいない。
ニュウは十分に自由な時間を持てるようになった。ほぼ1日おきに電話もかかってくるようになった。たいして話すべき内容もない電話であったが、仕事の合間に彼女を声の聞けるのはうれしかった。
週に1回か2回は一緒に食事をした。一緒に歩くときは彼女から手をつなぐようにもなったし、ベンチに座れば僕の方に頭をもたせかけるのも、まるで当たり前のようだった。
「僕のこと好き?」と聞けば「好きよ。」と答え、「愛してる?」と聞くと唇をとがらせて変な顔を作り、はじけるように笑い出す。
多分彼女の中では「愛してる」というのは肉体関係のある男女が交わす言葉なのだろう。もし、「愛してる」と口にしたら、それはイコールセックスをするという風に考えているのかも知れない。
愛してなくていい。僕は誰かの歌ってた「マイ・ラック・マイペンライ」と言うメロディを口ずさんだ。
ニュウは、「愛してないなんて言ってない。」と多少怒ったように言ったが、僕が笑って「愛してる?」と聞くと、「言えない」とそっぽを向いた。可愛い。

他愛のない話の後で、ニュウは唐突に
「チェンマイのお母さんのところに行ってくる。」と言いだした。
「えっ?いつ?どうして?」
「お母さん具合が良くないらしくて入院しているらしいの。あたしも3か月会ってないから会いたいし。明日夜バスでいく。」
「いつ帰ってくるの?」
「分からない、もう帰ってこないかも・・」
そんなバカな・・、心の中のつぶやきは声にはならなかった。
と突然笑い出すニュウ。「冗談よ、3日くらいで帰ってくるわ。何でそんな顔するの・・おかしい。」こらえられないとでも言うように体をよじって笑う。それほど打ちのめされた顔をしていたのだろうか。
「もう帰ってこないなんて言うから・・・。」
「ごめんなさい、悪い冗談だったみたい。でもお母さんのことが心配なのよ、すごく悪いわけじゃないらしいんだけど。」
「店は休めるのか?」
「もう辞めるつもりだから。」
「どうして?」
「あたしが「R」で働くこと、本当はいやなんでしょ?」
「僕はニュウに「辞めろ」とは言えない。それはニュウが決めること。だけどカラオケで働くより、他の仕事をしてくれた方がうれしいよ。中にはスケベな客がいて、ニュウに触ったりすると思うといやだもの。」
「友達が洋服屋をやっていて、手伝ってくれないかって言われてるの。お給料は少しだけなんだけど、あたし一人が食べていくだけだから大丈夫だと思って。」
「困ったらいつでも言ってくれればいい。」
「ダメよ、あなたにはもうアパートのお金をもらってる。自分が食べるバミーのお金は自分で働くの。」新しい仕事への希望からかニュウは明るかった。

ニュウがチェンマイに旅立つ日、僕は彼女をモーチットバスターミナルに送っていった。
彼女は家族へのお土産が詰まった大きなプラスティックバッグを持っていた。
軽い夕食を食べながら僕はなにげなく聞いてみた。
「その中には何が入ってるの?」
「お母さんやお姉さんの子供へのお土産」
袋を開けて取り出したのは、シャンプーやパウダー等の生活用品や電車のおもちゃなど、チェンマイでも買えそうなものばかりであった。
「チェンマイでも売ってるんじゃないか?」
「あなたには分からないと思ったからチェンマイって言ったけど、本当はチェンマイから少し離れた小さな街なの。とても田舎だから、スーパーマーケットもないの。」
里帰りする彼女に少しお金を渡そうかと思った。病気の母を見舞いに里帰りする娘に餞別を渡すことくらい日本でもするだろうと自分に言い訳しながら僕は5000バーツをニュウの手に握らせた。
彼女は驚いた風に手を引っ込めると「だめよ、もらえない。あなたにはもう沢山もらっている。」僕はやはり意地になっていたのだろうか。彼女を助けるが、対価は求めないと言う気持ちがより強くなって無理にでも受け取らせるつもりだった。
「お母さんの病院だってお金がかかるだろう。ニュウのことが心配だし、お金はあった方がいい。気にする必要はない。」もう一度ニュウの手を取って金を握らせる。
じっと自分の手を見つめたニュウは、あごの前で両手を合わせてワイをした後
「お母さんのために使わせてもらう。」と言った。
第三者的な目で見ればバカな男である。下心があるにしても思うつぼであろうし、下心がないのであればなおさらバカだ。と思った。いや思うだろう、1か月前の僕ならば。
バスの出発時間が迫っていた。僕はニュウの大きな荷物を抱えてバス乗り場まで彼女を送った。
「ここでいい、あなたも早く帰らないといけないでしょ。」
「君が行ったら帰るよ。」
「もう行くわ。」今生の別れでないことは分かっていた、またすぐ逢えることも分かってはいたが、僕は彼女の肩を抱き寄せて髪にキスした。
下を向いて恥ずかしそうにしていたニュウは、目を上げると微笑んで「また会おうね」と呟いたあと、僕の手から荷物をとって歩き出した。

3日後ニュウから「バンコクに帰った。」という電話があった。「R」を辞めて友達の洋服屋で働くとも言っていた。
しかしそれから約1週間、ニュウは全く僕と会ってはくれなかった。洋服屋の仕事は朝9時から夜7時までであったが、店主が不在がちなため閉店の11時まで店番をしなければならないことが多かったからである。
洋服屋と言ってもほとんど露店のような構えらしく、電話をするといつも「暑い、もう真っ黒に日焼けしちゃった。」と言っていた。
ようやく逢えたのはニュウが「R」を辞めてから10日後のことであった。
僕はちょっと不機嫌に「せっかくアパートに住んだのに逢える時間がなくなってしまった。」と言ってしまったが、「ごめんなさい」と俯いた彼女の視線の先にある両腕を見て彼女に少しでも非難がましい言葉を向けたことを後悔した。色白だった彼女の腕は、すっかり日焼けして痛々しいほどだったのだ。
「仕事はつかれるだろ、一日いくらもらえるの?」今度は努めて優しく聞いた。
「200バーツ。」
一日炎天下で商売をして200バーツ、これを聞いて僕はショックだった。
「R」にいれば、お客の横に2時間座っているだけで稼げる金額である。それも化粧して着飾って寒いくらいエアコンの効いた室内にいるだけでいいのだ。
自分で訊ねておきながら僕はその金額にコメントできなかった。
「こんなに黒くなっちゃって、あなたは嫌いでしょ?」
「関係ないよ、ニュウは色白だからもったいないとは思うけど、それで嫌いになったりしない。」
「日本の男の人は色の白い人が好きでしょ。日本人の女性は白いものね。」
「白くったって黒くったって関係ないよ。僕はニュウが好きだ。」
「ありがとう。」

二人の仲はこれと言った進展もないまま、2か月目に入っていた。
毎日午後に電話すると「暑いよー、洋服全然売れない。もう真っ黒になっちゃった。」と決まり文句のようにニュウは言う。
2か月目の家賃をニュウに渡したとき、彼女は複雑そうな顔をして切り出した。
「お金をもらって何もしないのは良くない。あたし、あなたのために何が出来る。」
「こうやって一緒にご飯食べたり、映画を見たり、それだけでいいんだ。それに君と話がしたいから、最近は一生懸命タイ語を勉強してる。上手になったろう?」
「うん、上手になった。じゃあ、あたしがタイ語を教えてあげる。」ニュウは笑ったが心からの笑いでないことはすぐに分かった。
彼女は、僕がセックスを求めると思ったのだろうか、そしてその方が気が楽だと思ったのかも知れない。
このまま毎月いくらかの金を渡しながら、恋人でも愛人でもない中途半端な関係を続けていくことは迷路に迷い込むようなものにも思えてきたが、僕は後悔しない自信はあった。ストレスの多いバンコクでの仕事、彼女の微笑みは間違いなく僕の心を癒してくれているのだから。





第3章 二人きりの部屋
季節は雨期に入っていた。不安定な空はときおりスコールを見舞うが、日中は暑く風のない日が続いていた。
僕のオフィスのあるビルは広大な敷地を持っており、昼休みは木陰で食事をするタイ人の同僚を多く見かける。
同じフロアで働くソムチャイは僕の仲のいい同僚であり、酒飲み友達でもある。
ある日の昼食後、屋台で買った冷たいスイカを頬張りながら僕たちは木陰で涼んでいた。ソムチャイは我々の頭の上を指さして「この木知ってるか。」と聞いてきた。
それは紛れもなくガラウェイの木だった。あの日ニュウが「夜だけきれいな花。」と言ったあの花の木に間違いなかった。
「ガラウェイだろ。知ってるよ。」
「なぜ知ってるんだ。」ソムチャイは少々驚いたようだった。
「夜しか咲かない花なんだろう、夜だけいい匂いがするんだ」
「そうだ、夜の女だよ、カラオケクラブやバーの女。」普段はそれほどとは思わないが、この時のソムチャイの笑いはやけに下品に見えた。
夜だけじゃない、昼間だってきれいだ。と心の中で呟いて僕はニュウのことを思いだしていた。

忙しさにかまけて珍しくニュウに電話をしなかった日の帰り際、彼女から電話が来た。
「元気かい。」
「・・・」すすり泣く声が聞こえる。
「どうしたんだ、何があった。」
僕の声をきっかけにしたように携帯電話の向こうから嗚咽が聞こえはじめ、ニュウの泣き声は次第に大きくなっていった。
僕は一瞬パニックになったように、「どうした、何があった。」とくり返すだけだった。
しばらく泣いた後ニュウは嗚咽をこらえながら「ごめんなさい、もう大丈夫、あなたの声を聞いたから大丈夫。」といった。
大丈夫と言われたって、何がなんだか分からない僕は、とにかく夜二人で会うことを承諾させて電話を切った。
レストランで向かい合ったニュウは目を泣きはらしており、化粧も口紅だけだった。
「ごめんなさいね、驚かせて。でももう大丈夫。元気になった。」
「理由を聞かせてくれないか、何があったんだ。」
「よく分からない、ただ、お母さんのことや、仕事のこと、いろいろ考えすぎてわからなくなっちゃったの。」
「電話くれたらいつでも会いに来るから。」
「ありがとう、でも仕事の邪魔しちゃいけないと思って。」
結局ニュウが泣いた理由は分からなかったが、一人暮らしの寂しさも相当堪えているのかと思い深くは聞かなかった。
ニュウはほとんど食事に手を付けなかったが、しばらくとりとめもない話をしているうちに笑顔を見せるようになった。

夜はまだ早かった。涼みがてらニュウをデパートに誘った。
知り合いに会わないようにとわざわざ郊外の大型デパートに向かう車内で、ニュウは僕の手を握ってきた。運転手が気になって話が出来ないためか、それにしてもうれしかった。賑わうデパートを歩いているとニュウの目がサンダル売り場のショーケースに止まった。彼女の背中を押して店内にはいる。何か買ってあげようと思ったのだが、ニュウはその僕の気持ちを察したらしく「何もいらない。」と言って店を出ようとした。
「何か買ってあげたいんだ。」
「あまりあなたにお金を使わせたくない。」
「「R」に行くより安いよ。」
結局800バーツほどのサンダルを買ったニュウはちょっと複雑そうな顔をしたが、「ありがとう」と言った声は素直なニュウの声だった。
タバコが吸いたくなった僕は最上階の駐車場へ向かう連絡通路へニュウを連れて行った。「タバコを沢山吸うのは良くないよ。」とおどけた感じで偉そうに言うニュウ。
「分かってるけど止められないんだよ。」と言い訳する僕。
吐き出したタバコの煙と同じようなゆったりとした時間が僕とニュウの間に流れていた。連絡通路の人通りはほとんどなかった。うす暗闇にタバコの火がぼうっと浮かび上がる。ベンチの隣に腰掛けたニュウは僕のあいている左手をそっと握って何が言いたげに僕を見上げた。
僕は左手を彼女の指からほどいて彼女の肩を抱いた。ニュウは一瞬戸惑ったように顔を伏せたが、僕が指先に力を込めるとゆっくりと潤んだ瞳を向けて僕をまっすぐに見た。
僕の唇にニュウの柔らかな唇が触れた瞬間、背筋に電流が走ったような気がして、僕は頭の中が真っ白になり、多分時間をも忘れていた。
近づいてくる子供の嬌声にあわてて体を引き離した二人は、同時に照れ笑いを浮かべ、僕はタバコをもみ消し、ニュウはサンダルの入った袋をポンと軽く叩いて立ち上がった。

帰り道、タクシーを拾う前に僕はニュウのアパートが僕の家と違う方向だったら別のタクシーで帰ろうと彼女に言った。
さっきのキッスで僕は年甲斐もなくドキドキしていた。今まで考えていたいわば「きれいごと」がガラガラと音を立てて崩れそうな気がしていたのだった。
彼女のアパートの場所は聞かない約束だった。聞けば行きたくなることも分かっていた。そしてそれは、大好きな女を金の力で抱くというどうしようもなく悲しい行為に直結してるように思えてならなかった。
「私のアパートもスクンビットなの。あなたを先に送っていけばいいでしょ。」
ニュウはそう言って、止まったタクシーに自分から乗り込んだ。ニュウの笑顔はさっきキッスの前と何も変わっていないように思えたが、バッグから鏡を出して口紅を気にしているのを見たときに、彼女もさっきのキッスを強く意識していることが分かり、僕はなぜだかホッとした。
時間は夜の9時を回っていた。僕はちょっと飲み足りない気がしていたので、タクシーの中でニュウに
「アソークあたりのバービヤで軽く飲んで帰る。」
と言うと、ニュウはちょっと怒ったような顔をして
「奥さんが待ってるんじゃないの?あなたがまだ帰らないんだったら私もまだ帰らない。」
と言い張った。
結局アソークとナナの間にあるバービヤで飲むことになり、二人は並んで止まり木に腰掛けた。
ニュウはアルコールを飲まないのでコーラを注文し、僕はハイネケンを注文した。二人の間には特に話さなければならないことは何もなかった。
ただ見つめ合い、ビールを舐めるように飲み、指先をからめ合った。
向かいのカウンターでは中年のファランが南部出身らしい色黒の女と、頬寄せ合ってビール片手に楽しそうに話していた。
ふと見渡すと、周りはそれらしきファランとそれらしき女達で一杯であった。
自分たちもはたから見れば、彼らと変わらないのかと思うと中年男の純愛はあまりにもバカらしいもののように思えたが、僕はそれで良いと思った。
ぬるくなった1本目のハイネケンを飲み干したとき、突然意を決したようにニュウは僕の耳に囁いた。
「あたしのアパートに一緒に行こう。」僕は驚いて呼吸が止まった。
さっきのキッスのおかげで二人の距離は確実に縮まっていることは僕にも分かっていた。でも今のままで肉体関係を持ったらそれは愛人関係になる。彼女のと関係がそうなることには抵抗があった。
もちろん、好きな女を抱きたくないわけはない。でも金の力で彼女を抱くことは、僕にとって恋愛の終わりを意味することだった。迷った。彼女の本当の気持ちが分からない。
「出来ない。」声は乾いて引きつっていた。空のハイネケンのボトルを思わずあおった。「どうして?あたしのこと好きなんでしょ?」
「ニュウは僕の愛人じゃないって言っただろ。」
「わかってる、でもこのまま帰って一人はいや。」ニュウは淋しそうな顔をしていた。
部屋に行っても彼女を抱かなければいい、と言い訳じみたことを考えて僕はそれ以上の口論を避けた。

驚いたことにニュウのアパートはそのバービヤから歩いて10分くらいのところにあった。
ソイの奥で、うれしはずかしと言った表情のニュウが指さしたその古めかしいアパートは、4階建てでエレベーターのない「独身タイ人専用」と言えそうな感じであった。
日本で言うところの1Kの部屋は、良く言えばさっぱりと、悪く言えば殺風景に片づいている。ベッド以外にはほとんど家具らしいものはなく、小さな丸テーブルの上には食べかけのクッキーと水のボトルが置かれていた。
「一体何食べてんだ?」冗談っぽく、出来るだけ僕は明るい声で聞いた。
「ここではほとんどご飯を食べないの。仕事の後にバミーとか食べて帰ってくるから。ここは眠るだけの場所よ。」
ニュウは僕をベッドに腰掛けさせていたずらっぽく笑うと、床の上に直接置かれた古いCDラジカセのスイッチを入れた。
驚いたことに流れてきたのはKIROROの「長い間」、3、4年前に日本で流行った曲だった。
「知ってるのか?この曲。」ちょっと自慢げな顔でニュウは僕の隣に腰を下ろした。
「大好きな曲。「R」にいる頃友達が歌っているのを聞いて、とてもいい曲だなって思ったの。意味だってだいたい知ってる。愛し合ってる二人が忙しくて会う暇がない、本当は愛してるのに言えない、って曲でしょ?」
「そうだ、僕たちと同じだ。」言ってしまってから後悔した。
後悔したとおりに二人は押し黙り、僕はごく自然にニュウを抱きしめてベッドの上に倒れ込んだ。
髪の匂いを僕は思いきり吸い込んだ。少し汗ばんだTシャツ越しにニュウの背中に僕は爪を立てた。
柔らかい体だった。僕の胸板につぶされたニュウの乳房から心臓の鼓動が響いていた。
僕の心臓も早鐘のようにうち鳴らされ、こめかみも同じリズムを刻んでいる。
体は反応していた、このまま服を脱ぎ捨てたい衝動は耐え難いほどにふくらんでいた。
心に迷いを残しているのは僕だけだったのだろうか。うなじの汗をニュウの唇で吸われたとき、僕ははっと我に返ってしまった。顔を離した僕はニュウの目を見た。
「ニュウは僕の愛人じゃない。」ニュウは頷いた。
「恋人かい?」かすかに微笑んでニュウはもう一度頷いた。

ごく自然に二人は結ばれた。あまり経験がないのか少しぎこちないながらも、堪えきれないとでも言うように反応するニュウの体の動きは僕にはとても新鮮だった。
シャワーを浴びたあと時計を見ると11時だった。もう帰らなければと思いながら、僕らは再び抱き合い、ベッドの海で荒ぶる波に飲み込まれていった。
「1年半も恋人がいなかったの。」ニュウは僕の腕に頭を任せて呟いた。
「セックスも1年半なかったの?」意地悪な質問をしてみた。
ニュウは早口のタイ語でなにか呟くと僕の脇腹をつねった。
そんなことはどうでも良かった。とにかく今の僕たちは愛で結ばれたのだと思いたかった。「次はいつ来れる?」身支度をする僕の背中にニュウは言葉を投げた。
「いつでも。ニュウが時間のあるときに電話をくれればいい。」
タオルを巻いたまま立ち上がったニュウを強く抱きしめて、僕は帰り道を急いだ。
パクソイに向かって早足で歩いていると、右手の塀の上に張り出した枝に白い花を見つけた。ガラウェイだった。
僕は前後に人がいないことを確かめてから、背伸びして花をひとつもぎ取り、歩きながら花の匂いをかいでみた。
甘く、それでいて何か鋭い刃物を連想させる香りは、今さっきまで僕の腕の中にいたニュウの香りに似ていた。





第4章 恋の行方
初めてニュウを抱いてからというもの、僕たちのデート場所はニュウの部屋が一番多くなった。
もちろん知り合いに会わないためでもあるし、ニュウが暑い町中を歩き回るのを嫌うからでもあった。
でも一番の理由はやはりセックスだった。
僕は、彼女と肉体関係を持つことに抵抗を持っていたし、ニュウもそう言う関係になることを怖がっていたために、お互い意識して避けていた、いわば高いハードルだった。
だからハードルを越えた後はまるで堰を切ったように感情が流れ出したとも言えよう。
ニュウの仕事が早く終わったときは夕方から僕は夕飯を買い込んで彼女のアパートに行くことが多くなった。
二人は一緒にいる時間のほとんどを抱き合って過ごした。
最初の頃はわずかに苦痛を訴えることも多く、自分から積極的に動くこともなかったニュウであったが、数日のうちにセックスに対して積極的に女性の役割を担うようになった。と同時に、快感をしっかり受け止める術を覚えたらしく、声も反応も日に日に大きくなっていき、いかにも薄そうなアパートの壁を意識して彼女の口をふさぐこともしばしばであった。
夜の店で化粧をし、ドレスをまとっている彼女よりも素肌に乱れた髪がからみついている僕の腕の中のニュウの方が100倍もセクシーに見えた。
ある日、事後のまどろみの中で僕はひとつ気になっていたことをニュウに聞いてみた。
「ニュウは僕のことを愛してるかい?」
「とても好きよ、でも愛してるとは言えない。」
「どうして?」あまりにあっさりと答えられたことに、僕の声は怒気を含んでいたかもしてない。
「私の考えている「愛してる」って言うのは、自分自身をコントロールできなくなるっていうイメージなんだけど、今あたしは自分の気持ちをきちんと分かってる。」
「どんなふうに?」
「うまく言えないけど、例えばあなたと結婚できないこととか、いつかは日本に帰ってしまうと言うこととか。そういうことをきちんと理解していて、そのことをあまり悲しまないようにって考えてる。」
僕はニュウがあまりにも冷静なことにショックを受けた。
「もちろん、今はあなたのことが大好きだし、一緒にいるのが幸せ。いろいろお金を使わせて悪いと思ってるけど、あなたが私とセックスするためにここの家賃を出してくれたんじゃないこともよく分かってるから、あなたのことは信じてる。」
「ニュウも僕のことを好きだからこうやって一緒にいてくれるんだろ?」
「あたりまえよ。好きじゃない人と一緒にベッドには入らない。そのためのお金はもらわないよ。「R」にいた友達の何人かは、日本人のオジさんにお小遣いもらって愛人やってる娘もいるけど、私は彼女たちと同じじゃない。」
ニュウは自分の考えていることを僕に理解させるために言葉を選んで、その上長い時間をかけて説明してくれた。
結局彼女は僕を愛してるとは言ってくれなかったが、いつかは終わる恋だなんて、僕はそこまで冷静に考えることが出来ないでいた。
20歳近くも年下のニュウの方がはるかに冷静に二人の関係を見ているような気がして僕はちょっと気恥ずかしいような気持ちになった。
そして最初の頃の意地はどこへやら、ニュウのなめらかな肌にすっかり溺れている自分が恐ろしくもあった。

ニュウの腕と首は体の他の部分に比べてはるかに黒く焼けていた。それが毎日の仕事の結果であることはよく分かっていたが、ニュウはそのことをとても気にしているらしく、裸になると必ず鏡の前に行き「真っ黒」と不機嫌そうに言う。
僕は必ず「黒くったって関係ない、白くても黒くても僕はニュウが大好きだよ。」と言って、焼けた腕や首筋に唇を這わせ、そうやって二人の甘い時間は始まっていった。
僕はニュウの色白の部分にも全て舌を這わせ、ニュウが懇願するまでその作業を止めなかった。
そしてその後はニュウがお返しをするように僕の体に舌を這わせ、やはりお返しをするように僕が堪えきれなくなるまで熱い分身をその唇で愛撫した。
そのときも僕は、堪えきれなくなるまでニュウの攻めを受け、いつものようにニュウに「もうダメだ。」と告げた。
いつもなら、勝ち誇ったような顔のニュウが僕の下半身を解放して腕の中に転がり込んでくるのに、その日にかぎってニュウは僕の懇願を聞き入れず、両手で僕の手をベッドに押さえつけたまま更に僕を責め立てた。
セックスするときは必ずコンドームを使うようにしていたのは、お互いに病気をおそれていたわけではなく、不幸な結果を招かないためであったが、それにしても僕はニュウの口の中に果てることは抵抗があった。
しかし、何度ニュウの名前を呼んでも彼女は僕の両手を強く押さえつけたまま、ゆっくりとした速度で顔を上下させるのを止めなかった。
僕は観念して、そのまま痺れるような快感の渦にのみ込まれていった。この時ばかりはニュウが僕の口を押さえたかったに違いない。
呼吸が治まるのを待たずに僕はあわてて手をふりほどくと、ティッシュをとってニュウに渡したが、顔を上げた彼女は、にっこり微笑むと「飲んじゃった」とこともなげに言った。
「どうしたんだ、いつもと違うことするなんて。」
「分からない、今までこんなことしたことなかったけど、してみたくなったの。」
「びっくりしたけど、うれしかった。」
「本当に好きじゃなかったら出来ないと思ったから。」
「それを僕に分からせようとしたの?」
「違う、自分で確かめたかったの。」
僕はニュウをちからいっぱい抱きしめて、その耳に囁いた。
「僕もニュウのことを本当に好きだってことを確かめていいかな?」
ニュウは耳まで真っ赤に染めて恥ずかしがったが、僕は抵抗をことごとく排除して、唇で彼女の体の芯の収縮を味わうまでニュウを責め立てた。
僕は自分が20代の若者になったような気がした。確かにそのころは1日に2度も3度もセックスすることが出来たように思う。
若いニュウと抱き合うことで寿命を縮めているのではないかと思うこともあったが、それでも良いと思っていた。

ある日二人は久しぶりに買い物に行くことにした。
ニュウは相変わらず僕に高いものをねだることはなかったが、以前に比べて遠慮することはなくなり、僕はそんなことでも二人の距離は縮まったと思いうれしかった。
若干の洋服や雑貨を買った二人がコーヒーショップで一休みしてるとき、ニュウはガラスの向こうの通路を眺めながら不意に驚いたような声を出した。
僕が振り向くと、20代半ばのタイ人女性がガラスの向こうから小さく手を振っていた。見覚えのある顔だな、と思ったときニュウが「「R」のレイちゃん。」と言った。
ああ、そうだったのかと僕がガラスの向こうの彼女に微笑みを返すとニュウは
「ちょっと待ってて、すぐ戻るから。」と言ってガラスの向こうの友人に会いに行くため席を立った。
彼女たちはしばし久しぶりの再会を喜び合うように手に手を取って嬌声をあげていたが、しばらくすると、二人の話題は僕に移ったらしく、チラチラとこちらを見ながら何ごとか話し合っていた。
そのうちにニュウが顔をしかめてなにやら抗議しているような雰囲気になり、相手の彼女はそれを煽るように更にニュウのいやがることを言っているようにも見えた。
およそ5分くらいの会話の後、レイちゃんと言う女性はにっこり僕に微笑んでからニュウの肩をポンポンとたたいて去っていったが、ニュウは不満そうな顔をしてクルッと踵を返すと大股で僕のいるテーブルに帰ってきた。
席に着いた彼女はさっきまでとは違った怒ったような不満げな顔をしていたので、僕は少々心配になった。
「彼女はなんて言っていたの。」
「店を辞めて日本人の愛人になったのか、って。」
どうやらそれで怒っていたらしい。
「それでニュウは怒ってるのか。いいじゃないか何を言われたってかまうもんか。二人が愛し合ってるかどうかなんて他の人には分からないことだから。」
「でもあたしが夜の仕事以外で生活費を稼ぐことなんて出来ないってみんな思ってるから。きっとお金をもらって愛人になってると思うのよ。」
外見はそうだった。妻子ある日本人、それも店の客として知り合った日本人に経済的な援助をしてもらいながらアパートに一人暮らしをしている。そしてその相手とアパートで逢瀬を重ねている。どこから見ても愛人関係に違いない。そこに愛があろうとなかろうと、他人から見ればそんなことは関係ない。
ニュウは何を考えていたのだろう。横顔には迷いと怒りがないまぜのような色が浮かんでいた。

急な出張を言いつけられたのはその翌日だった。木金の1泊2日でチェンマイに行けと言うものだった。
普段であればたった一人の出張は味気なく近くのMPあたりで憂さを晴らす程度のつまらないものだったが、今回は違っていた。僕ニュウを連れて行こうと思った。
僕が仕事をしているときにニュウを実家に帰らせて、週末は自費でチェンマイに二人で滞在すればいい。
ニュウは二つ返事でOKし、こんなに早く母親に再会できることを喜んでいた。
家族には3泊4日の出張であると告げ、僕はニュウと二人分のエアチケットを購入した。予定通り木金の2日は僕は仕事に没頭し、ニュウはチェンマイからバスで故郷に帰ることにした。
もちろんいくつかのお土産の品と、若干の現金を持たせてニュウは母親の元に向かっていった。
金曜の夜、ニュウは予定通りにバスターミナルに降り立ち、僕たちは初めて二人っきりの旅行を楽しむことになった。
ナイトバザールをひやかし、カオソイを食べ、ナイトクラブで遅くまで遊んだ後、ホテルに帰り愛し合う。
翌朝太陽が黄色く見えるかと思えるほど愛し合った二人は、翌日昼過ぎまで目を覚まさなかった。
腹が減ったらメシを食い、二人きりの時間はほとんど裸で抱き合って過ごした。限りある二人の時間を惜しむかのように。
夢のような二晩はあっという間に過ぎ、僕たち二人は疲れ果てた体をボーイングのシートに任せてバンコクへと帰った。

ニュウから「話したいことがある。」という電話があったのはチェンマイから帰った三日後だった。
ほんの少し悪い予感を感じた僕は、彼女のアパートに行くのを避けて、サヤームのレストランを待ち合わせ場所に指定した。
髪を束ね、Tシャツと黒いジーンズでニュウは現れたが、化粧っ気のない顔はいつもと同じように可愛らしく微笑んでおり、僕が気を回すほど悪い知らせではないように見えた。「あなたはいやだって言うかも知れない・・」ニュウはオレンジジュースを運んだウエイターが立ち去るやいなやこう切り出した。
「あたしまた「R」で働こうと思ってるの。」
予想外の話だった。
「どうして?洋服の仕事はだめなの?」
「お給料が安いから・・。」
「金のことなら僕が何とかするよ。」
「自分で働いて稼ぎたいの、友達に愛人をやってるなんて言われないように。」
「ニュウは愛人じゃないんだ。」
「でもそう思われてる。自分で稼ぐお金じゃ家賃も払えないし、洋服も買えない。みんなあなたに援助してもらって生活してるのはいやなの。あなたのことは好きだし、沢山会いたいと思ってる。お店であたしが他のお客さんの接待をすることをあなたがいやがることも分かってる。でも、自分のことは自分でして、その上であなたを好きでいたいの。」
「僕の援助は受けたくないってこと?」
「そうじゃない、あなたの助けがなかったら今のアパートに住んでいられないことは変わらないけど、あまり私のためにお金を使わせたくないの。あなたが助けてくれるから私はお金のことをイージーに考えるようになってる。あなたからもらったお金をお母さんに渡すとき、あまりいい気持ちじゃなかった。」
ニュウの言いたいことは何となく分かった。やはり金のやりとりがあると恋愛感情が純粋なものに感じられないと言うことだろう。
かつて僕が感じていたことをニュウも同じように感じていてくれることがうれしくもあり、複雑な気持ちだったが、僕は彼女のしたいようにさせようと思った。
「ニュウの言いたいことはわかった。「R」で働くのは別にかまわない。僕はニュウに命令したりしないから、ニュウのしたいようにしていいよ。それで君を嫌いになったりしないから。」
ニュウはホッとしたように微笑んだ。
「でも他のお客さんにいやらしいことされないように、気を付けなきゃダメだよ。それとホテルに誘われても断ること。」
「わかってる。」
ニュウが再び夜の女になるのは正直言ってうれしいことではない。でも僕は彼女を生涯愛し続け、守り続けることの出来る男ではない。
やはりこの恋愛は「R」という疑似恋愛のステージに持って帰るのが一番いいのかも知れない。
すっかり涼しくなったサヤームスクエアを歩きながらニュウは歌うように言った。
「明日からお店に出るから、たまには遊びに来て。お化粧してドレス着たあたしも見て欲しい。」
「化粧なんかしなくたってニュウはきれいだし、ドレスなんか着なくたって僕はニュウが大好きだよ。」
「あなたを愛してる。」ちょっとおどけながら、ニュウは初めてこの言葉を口にした。
肩にもたれかかるニュウの髪はあの白い花、ガラウェイの香りがした。
(完)